巻頭言
2003年12月


2003年12月7日

待降節を迎えて

牧師 犬塚 修

イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、 聖霊によって身重になった。夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、ひそか に離縁しようと決心した。 マタイによる福音書1:18〜19

ヘンデルは「メサイヤ」において、神の御子イエスの誕生こそが人類にとって歓喜なのだと賛美しました。この作 曲の時、彼自ら病いの床にあったこと、試練の只中にいた事を考えますと、驚くべき告白です。彼はどんなに 多くの苦しみがあっても、自分に与えられた主の救い、それに伴う魂の平安と歓喜は、誰も取り除く事ができな いと確信していたのです。確かに人生の荒野の旅には、戸惑い、不安、心配、思い煩いなどが随行する時が あります。しかし、それらをはらんだまま、主の救いは静かに進んで行きます。 ここに登場するヨセフとマリヤは 新しい人生の門出に胸ふくらませていました。その幸福の絶頂から、奈落のどん底に突き落とされる悲しい事 件が起こりました、それはマリヤの懐妊でした。当時、そのような女性は不実な者として死刑にされました。苦 悶した末、ヨセフはついに離縁の決断をします。彼は愛する者の命を守ろうとしたのです。その危機的な時に 主のみ使いは「心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。 彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。…すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者 によって言われたことの成就するためである。」(同20〜22節)と語りました。私たちもいろいろと心配します。けれ ども、恐れる事はありません。神の愛に基づく永遠の計画はすばらしいものですから。神は私たちの信仰を通し て、愛に満ちた栄光と恩寵の世界へと導かれます。ゆえに起こる出来事に「ここにイエスがおられる」と告白する 事です。



2003年12月14日

若々しく生きる

牧師 犬塚 修

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共にお られる」という意味である。       マタイ1:23

クリスマスは年若いヨセフとマリヤの身に起こった恵みの出来事でした。二人は青春時代の真っ只中にいました。 永遠の命を与えられたキリスト者もまた、変わらない若さを保つ者です。私たちは年齢に関係なく、常に、若々し い青春時代の住民なのです。「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、 疲れ、勇士もつまずき倒れようが主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ること なく、歩いても疲れない。」(イザヤ40:29〜31)イエス様は若さの極みとして、みどり子となってベツレヘムにて聖誕さ れました。確かに、クリスマスは若々しさとすみずみずしさに満ちています。さて、この「若い」という字ですが、よく見る と「苦い、苦しい」という字と似ています。ただ草冠の下に「右」が来ると、「若」となり、「古」がくると、「苦」となります。 その字を見つめながら、いろいろなことを考えさせられました。日々の生活の中で、「右」の世界に生きる事の大切さを 考えさせられました。聖書においては「右」は「勝利」を意味しています。すなわち、どんな状況下にあっても「主は 私にとって完全な勝利者!」と強く確信して生きるならば、その生き方は、力強く若々しいものとなりますが、逆に 「古い」もの、たとえば、過去の思い出や罪責感、がんこな先入観、屈辱感などに支配されると、私たちはいつの間に か、急に老け込み、最後は苦々しい心理状態に陥る気がします。「右と古」というほんのささいな違いで、人生や将 来が天と地ほどの違いになる事があります。「古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなった」(第二コリント5:17) とあります。10年前の出来事も1時間前の事も、主にあっては、古いものであり、過去に属します。常に新しくされ、、 インマヌエルの神の臨在を確信しつつ、主の勝利に与って前進したいものです。



2003年12月21日

飼い葉桶に向かって

牧師 犬塚 修

羊飼たちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」と、 互に語り合った。そして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあてた。」 ルカ2:15,16

神の御子がユダヤのベツレヘムという寒村にてお生まれになった時、その喜びの知らせを最初に聞いたのは、 夜通し働いて疲れきっていた貧しい羊飼いたちでした。彼らはそのニュ−スを聞いた時、驚き恐れました。 彼らは心底、疲れ果てていた事でしょう。私たちも彼らと同じように、困った事、頭を悩ます事、もうこれ以 上は無理だ、という状況に置かれます。なすべき事が分かってはいても、手がつかず、時間ばかりが矢のよ うに過ぎて行く時もあるでしょう。そして、焦りからパニックに陥るのです。ストレスと不安、恐れが襲い絶望 感を感じます。このような心労の生活を続けていくと、心身とも痛みます。主はそのような苦労している者 に対して、すばらしい救いの道を示されました。それがクリスマスです。神の御子が私たちの所に来られた 事によって、私たちはあらゆる思い煩いから解き放たれます。また羊飼いたちは、救い主を拝むために飼 い葉桶に向かってでかけました。彼らが長年、追い求めていた心の救いが、ついに成就しました。彼らは ついに絶え間ない不安から解放された事でしょう。私たちが御子を信じるという事は、どんな不安にから れても、「よし、必ず間に合う、うまく導かれる!心配する事はやめよう」と断言する事を意味しています。 羊飼いたちは、飼い葉桶に急ぎました。そこに救い主がおられると信じていたからです。この決断が、彼ら にとって救いの道となりました。すばらしい恵みは、突然、天から降ってくるというよりも、この羊飼いたちのよ うに、自ら立ち上がり、示された場所に出かけて行くという信仰的決断から生まれます。飼い葉桶の御子 を捜し当てましょう。それは人生最大の歓喜の時です。



2003年12月28日

感謝の一年

牧師 犬塚 修

なぜなら、神の約束はことごとく、彼において「しかり」となったからである。だから、わたしたちは、彼 によって「アァメン」と唱えて、神に栄光を帰するのである。  第二コリント1:20

今年もあと残すところわずかになりました。いろいろな出来事が起こった一年でした。世界は未曾有の危機的な時 代に突入した感がします。いつ、どのような形で、テロや戦争に向かうのか予断を許しません。まさに悪しき時代の様 相を呈してきました。このような時こそ、神の約束を強く確信する事が求められています。自分に起こった出来事につ いて、ただ否定的にとらえて後悔したり、いらだったりせずに、「それも良し」とありのままを受け入れる事です。自分の 願った方向に進まなかった事もあったかもしれません。けれども、神はすべての事を益に変えられるお方です。さぁ、来 年に向かって、すべてを感謝する心を持ち続けましょう。主なるイエス様により、神の約束はすべて然りとなったのです から。いかなる事も、信仰に基づく感謝の心でプラスととらえましょう。また、悔い改めるべき点は、心から悔い改め、 新しい出発を志す事です。私たちを不信仰の暗部に落ち込ませようとするサタンは、ひそかに私たちに、いろいろない やな出来事を起こす事で、純真な信仰や祈りの生活を砕こうとします。それに対して、信仰の盾とみ言の剣をもって 戦い、信仰による勝利をおさめていかねばなりません。もし辛いことが突如、起こっても慌てず、恐れず、誠実に主に 従うならば、必ず、私たちには歓喜にいたる救いの道が待っています。サタンの誘惑に屈し、信仰も弱くなり、主から 離れ去ってはなりません。悪を悪とし、善を善とする生き方を貫く事です。いかなる出来事にも主の偉大な支配があ ると確信し「それも良し」という寛大な心で生きましょう。日々の営みにも、一々動揺せず、一喜一憂せず「主よ、す べてを感謝します」と賛美したいものです。


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