巻頭言
2002年12月


2002年12月1日

「礼拝と神の国」月間を迎えて 

牧師 犬塚 修

ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたした ちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある 神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増 し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてと こしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。  イザヤ9:5〜6

今朝からアドベント(待降節)に入ります。神の国が最も現実的なもの、また 完全なものとして、私たちの中に出現したのが、クリスマスです。全世界の 人々はこの時期、神の御子イエスが人間の姿をとって、ベツレヘムという小 さな村で生まれたことを祝い、喜びあいます。主は宿屋の中で、おそらく地 下にあった馬小屋の飼い葉おけで産声をあげました。人間の持つ罪、弱さ、惨 めさ、痛みなどを引き受け、共に生きるために、この世に卑しい姿を取ってこ られました。私たちの罪のあがないのためにこられたのです。
しかし、主はただ、貧しく無力な存在ではなく、神の偉大な代理者としても降臨 されたのです。預言者のイザヤはクリスマスの約700年以前に、その御聖誕を 予言しました。主は弱い私たちを深くあわれみ、共に歩まれましたが、その 権能は驚くべきものでした。それは、「無力による全能」という言葉がふさ わしいものでした。十字架は弱さの極致です。何一つ奇跡を現すことなく、 ただ、罪人として殺された主のお姿にこそ、私たちは神の全能の愛、摂理、 絶大な力を発見します。正義の味方であったス-パ-マンのようにしてではな く、何もできない無力なお方として、十字架の道を歩まれた生き方に、本当 の神の愛の奇跡と神の国にある救いの完成を見るのです。



2002年12月8日

喜びの奉げもの

牧師 犬塚 修

家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を 拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。マタイ2:11

東の学者たちが遠い国バビロンからエルサレムまで旅をしてきた目的は、た だひとつ、聖誕されたメシヤを拝するためでした。砂漠を越え、盗賊の難、命 の危険にさらされながらの長旅に耐えぬけたのは、メシヤと人目でいいからお 会いしたいという一途な願いによるものでした。当時、世界は不安と恐れに満 ちていたと伝えられています。現代日本の状況と似て、人心は、乱れ、世紀末 の様相を呈していたのです。天文学者たちは、旧約の預言に精通していました ので、必ずメシヤが生まれるという夢を持っておりましたが、ついにメシヤ来 臨のしるしである「ダビデの星」ほ天空に発見し、大いなる喜びにつつまれた のでした。そして、苦難の果て、ついにメシヤがベツレヘムのある家の飼い葉 おけの中に、スヤスヤと眠っておられたのを目撃し、感涙にむせんだのでした。 そして、自らが大事に持ってきた宝物をうやうやしくささげたのです。世界で 最初のクリスマスにおいては、私たち人間が神に最高のささげものをお捧げる ことが記されています。それは人間としての真摯で誠実な行為でした。その美 しい行為の中に、神の国が静かに広がっていきました。「ファリサイ派の人々 が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の 国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるもの でもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:20〜21)神 の国は、喜んでささげる魂と行いに存在するのです。そしてその愛の贈り物 は、全世界に輪のように広がっていくのです。



2002年12月15日

懐かしいもの

牧師 犬塚 修

主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたし の身も心も叫びます。  詩編84:3
天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こ う。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。 ルカ2:15

ある書物に「しあわせ(さいわい)は高貴さや尊さばかりを追い求めている うちは決してこないでしょう。それは自分のうちに死ぬほど懐かしいもの を見出したときに、初めて咲き映えるものといえます」という一節があり ました。さらにアンデルセンの「みにくいアヒルの子」はどうして白鳥に なれたのかという理由として、自分はこんなアヒルではないという高いプ ライドをもち、「いつか自分は美しい白鳥になってみせる」といういじめた 相手への復讐心を燃やしたからではないと言うのです。鳥は「刷り込み」とい 性質があって、生まれて初めて見たものが自分の親になるのですから、根っ から自分はアヒルの子と考えていたはずです。ではどうして、彼は美しい変 貌を遂げえたのでしょうか。それは、彼が多くの白鳥の群れを一目見て 、「あぁ、何か懐かしい…」と言う心の琴線が震えるような不思議な感動を持ち、 これからも悲しみが続くのならば、むしろ、あの白鳥たちに殺されたほうがま しという、決死の思いで翼を広げた時、飛び立てたというのです。つまり、 私たちは憧れや夢、また負けん気などでは生まれ変わるのではなくて、万一、 いかに厳しい現実が待っていようとも、主のみ心と信じて旅立つ時、新しい 恵みの世界が開けてくるのです。私たちはクリスマスのこの時、あの寒さに 震えていた羊飼いのようにベツレヘムのみどり子を慕い求め、又、神の国を 待ち望む者として生きて生きたいものであります。



2002年12月22日

飼い葉おけに

牧師 犬塚 修

彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布に くるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。 ルカ2:6〜7

クリスマスの出来事は神がどのようなお方であるかを鮮やかに明示しています。私 たちは辛い体験をする時は、がっかりし、神は自分に対して冷たく、無関心ではな いかと考えることはないでしょうか。あの時、叫んだ時にも助けてくれなかった、 守ってはくれなかったとつぶやくのです。それだけ辛い体験を味わったので、そう 言わずにおれないのです。しかし、神はそのような私たちの呻きを理解し、熱い同 情と共感を抱かれます。そして、必ず、私はあなたと共にいて、痛みや苦難から救 い出すと約束されます。その絶大な証拠が飼い葉おけなのです。神の御子があろう ことか、授産所ではなく、牛馬が草をはむ飼い葉おけの中で生まれたのです!そこ は、みどりごにとっては最悪、最低の場所ではないでしょうか。そんな所に宿られ たということは、神は私たちと同じ条件、否、それよりももっと悪い境遇に身を置 くほどに、自ら弱く貧しくなられたことを意味しています。「言は肉となって、わ たしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)とあります。神の愛の現し方は私たちの人 知をはるかに超えています。私たちは自分の思い通りにいくことが良いことである と思いこむ傾向がある気がします。そして、思いもかけない悲しい事が起こると戸 惑い、無気力になります。そんな時は、神の御子が飼い葉おけに生まれ、私の痛み や苦しみを深く味わい、共に悩んでくださること、そして、そこから私たちの人生 にすばらしい愛の奇跡を現されることを信じることです。たとえ、どんな紆余曲折 の道を歩もうとも、ついには必ず、苦悩を歓喜に変えられます。そして喜びの歌を 高らかに天に響かせるようになるのです。主にあっては苦しんだ分だけ心は耕され、 豊かな成熟にいたるようになるのです。



2002年12月29日

一年を振り返って

牧師 犬塚 修

すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。 栄光が神に永遠にありますように、アーメン。 ローマ11:36

激動の一年も過ぎ去ろうとしています。日本の社会的状況はますます、暗い 影を落としてきています。このような不安定な時代であるからこそ、私たち は信仰の目を上げ、復活信仰に立って歩みたいものであります。全知全能の 神は私たちの先頭に立って、すべてを最善の方向に導いてくださると信じるも のです。さまざまな出来事が縦糸、横糸のように織り成され、すべては神に よって守られ、神に向かって栄光へと変えられていくのです。「わたしたちは 耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わ たしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにするこ となく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、 これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってく ださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたち は神に希望をかけています。私たちは信じています」(第一コリント1:8〜10) 最悪の時にも、主の御手は休むことはなく、絶えず、助けられます。もし、私 たちが心が砕かれ、主のみ言葉に耳を傾けて生きるならば、隠されていた恵み が見えてきます。また、恵みに彩られた人生のモザイク模様が鮮やかに映し出 されていることを発見することができます。「初めからのことを思い出すな。 昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは 芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き、 砂漠に大河を流れさせる。野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。荒れ野に 水を、砂漠に大河を流れさせ、わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ」 (イザヤ43:18〜20)新たな希望に共に歩みましょう。


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