巻頭言
2001年12月


2001年12月 2日

待降節を迎えて

牧師 犬塚 修

イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、 占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王とし てお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星 を見たので、拝みに来たのです。」 (マタイ2:1,2)

いよいよ待降節に入りました。今から二千年前、東国の学者たちはどんな思いで天 を仰いでいた事でしょうか。おそらく、心が喜びであふれ、夢心地であったと考え られます。先日、真夜中に、獅子座の流星群が美しい天体ショ−を繰り広げました が、ほうき星の乱舞は見る者の心を沸き立たせた事でした。それ以上に、学者たち の魂は歓喜した事は間違いありません。なぜならば、彼らは長年、メシヤ(救い主) の星を待ち焦がれていたからです。当時の世相は殺伐としたものでした。人心は将 来に対する漠然とした不安におびえ、得体の知れない恐怖におののいていました。 彼らは必死でメシヤの到来を待望していたのです。この混乱に終止符を打つメシヤ が出現し、世界に真の平和をもたらしてくれるに違いないと。そのお方は、パレス チナ地方に現れる事、その前兆としてメシヤの星が夜空に輝く事を確信していたの です。彼らはこの希望に胸ふくらませて生きた人々でした。彼らのように、私達も 信じているものを強く待ち望む事が必要です。その希望、待望の生き方が私たちを 幸福に導くのです。彼らは天を見上げて生きました。私達も苦しい時、悲しい時こ そ天を、上を向いて生きることです。世界中で愛唱されている「上を向いて歩こう」 という名曲はなぜいつも、私たちの心にしみるのでしょうか。それは、「涙がこぼれ ないように」と続くように、悲しみを直視しつつも、なおも希望を失わないで、喜び を待ち続けている生き方にあるのです。私達の愛する主こそ希望の星なのです。「わ たしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」(ヨハネの黙示録22:16)




2001年12月 9日

「新創造と交わり」月間を迎えて 

牧師 犬塚 修

ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。 権威が彼の肩にある。…王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ 支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。(イザヤ9:5, 6)

クリスマスの出来事は、私達の人生におけるしい創造のみわざを約束したものです。すなわち、 主の平和と正義と恵みの業が現されるのであります。私達はこの世でただ苦労し、何の報いも なく死んでいくために生きているのではなく、希望と信仰と愛に支えられて歩むことで、神の 栄光を輝かすという大きな目的のために召されたのです。
ひどりごイエス様は飼い葉おけの中に生まれたように、貧しい私達の心の中に宿られました。 そして、私達の歩調に合わせて歩んで下さいます。いつも支え、見守り、最善の道を指し示さ れます。たとえ、目の前には荒涼とした荒野が横たわっていても、主は「恐れることはない。 私があなたと共にいるから」と力強く語りかけられます。そして私達は人生の荒野を切り開く 勇気がよみがえるのです。そしてついに麗しい地へと変えられていくのです。イザヤは新創造 のみわざについて「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ。砂漠よ、喜び、花を咲かせよ。…砂漠は レバノンの栄光を与えられ、カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我ら の神の輝きを見る」(35:1〜2)と記しています。私達はこのような希望が約束されていますの で、「弱った手に力を込めよろめく膝を強く」とする事ができます。確かに私達は新しい生き 方を選び取り、前進することができるのです。エデンの大地を耕したあの二人のように、私 達も自分に与えられた人生という大地を耕すという喜びに満ちたつとめが託されています。 それは無から有が生じていくという大きな収穫に至る喜びであります。それはいつか実り溢 れた祝福の畑となっていくのです。




2001年12月16日

クリスマスの喜び

牧師 犬塚 修

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」(ヨハネ1:14)

クリスマスは神の御子であるイエス様が、人間となって私たちの間に宿られたという出 来事であります。「゚肉」とは「もろさ、無力さ、不完全さ、はかなさ…その有限性、 一時性この世では感覚と欲望の支配から解放されず、やがて朽ち果てていく一時的存 在としての肉」(新約聖書ギリシヤ語小辞典、織田昭)の意味です。私たちは理想通り の生き方をしたいと切望します。しかし、現実は厳しく、時々、惨めな自分が露呈して 悩み苦しみます。パウロも「わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、 わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなん と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれる でしょうか」(ロ−マ7:23〜24)と叫びました。彼はかつては自信に満ちた人でしたが、 本当の自分を直視した時、うち崩れたのです。しかし、さすがはパウロです。彼は 突如自分から目をそらし、イエス様に向いました。その時、彼が心の目で見た光景 はまばゆいばかの光に包まれた新しい自分と、その自分がこれから生きる恵みの世界でした。 彼は光りの中で幼子のようなあるがままの自分の姿を発見したのです。そして、 高らかに「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」(25節) と宣言したのです。どんなに罪が深く、どうしようもない自分であっても、そこに イエス様は宿ることを決断されました。もう何があっても、主は私たちを見捨てられ ない、否、それどころか、共に働いてその汚れた部分を洗い清めて下さると確信した のです。しかも、ほほ笑みながら、そのような仕事を黙々となさいます。私たちの歩 みもベツレヘムからゴルゴタという丘に向っての人生のようです。最後は死で終るよ うに見えますが、実は、そこは復活の光が輝くというすばらしい栄光が私たちを待っ ています。その恵みを確信して、イエス様と共に歓喜しつつ歩む事です。




2001年12月23日

クリスマスの喜び

牧師 犬塚 修

「天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。 主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。 (ルカ2:15)

イエスの名を呼びつめよう     入る息出る息ごとに呼びつづけよう。
いきどおりがわいたら、        イエスの名で溶かそう 
弱くなったら               イエスの名でもりあがって強くなろう
  きたなくなったら             イエスの名できれいになろう
死のかげをみたら        イエスを呼んで生きかえろう    (八木重吉)

クリスマスおめでとうございます。約二千年前、神の御子誕生のニュ−スは、夜通し 寒さに耐えながら、黙々と働いていた羊飼いたちに伝えられました。その時、彼らは 大喜びでイエス様がお生まれになった馬小屋に急ぎました。八木重吉は羊飼いに似て いる気がします。彼は無名で病弱な詩人でしたが、その清純で信仰に満ちた詩は、今 も私達の胸を打ち続けています。彼はイエス様を信じる信仰によって、病や死の恐れ から解放されました。そして自分のあるがままの裸の姿を隠すことなく、むしろ、そ れによって神の栄光を現せると確信したのです。絶えずイエス様を仰ぎ、生き生きと した信仰の道を歩き続けました。私達の喜びはこのイエス様を信じることにあるので す。世界で初めてのクリスマスにはきらびやかなものは何一つなく、あったのは、羊 飼い達の祈りと讃美と感謝の歌声だけでした。それこそ最も心満たされる聖夜でした。 そして彼らは確かに知ったのです。このみどり子こそ、全世界の救い主である神の御 子であると。それは人生最高の大発見でした。




2001年12月30日

 数えてみよ、主の恵み

牧師 犬塚 修

見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむことなく、眠ることもない。 主はあなたを見守る方、 あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。 昼、太陽はあなたを撃つことがなく、夜、月も あなたを撃つことがない。(詩編121:4〜6)

2001年は終ろうとしています。いろいろな恐ろしい大事件がありました。凶悪犯罪、世界 的なテロ、狂牛病、いつまで続くのか深刻な不況とリストラ、激増する自殺など、胸が痛くな るような暗い一年でありました。人間の心は次第に理性も悟性も忘れ、滅亡に向って驀進して いる気がしてなりません。現実を見ると、ついつい暗い気持ちになってしまいます。しかし、 今こんな時だからこそ、私達は目を天に向けたいのです。主はこの暗い時代の私達に何を告げ ようとされているのでしょうか。本当に人類の将来は絶望的なのでしょうか。聖書は尚も新し い希望を語っています。主は今も生きておられ、詩篇121編のように今も、力強く、また優 しく語りかけておられます。神の民の歴史は本当に厳しい出来事の連続でした。しかし、彼ら は雑草のようにたくましく、時代の荒波を乗り越えていきました。それは、彼らが、心から、 愛の神を信じていたからです。たとえ、どんな事が起ころうとも、主は決して私達を見捨てら れないこと、必ず、すばらしい救いの出来事が起こされると確信して、多くの耐え忍んだので す。過去にどんな救いが与えられたかを回顧したその時、彼らは、主は驚くべき恵みを与えて 下さったことに気付いたのです。確かにです。確かにいろいろと辛いことがあったけれども、 よくよく振り返ると、そこにも主の恵みがあったことを悟り得たのです。そして、少しづつ、 分かってきたことは、主は何と力強く私達を支えておられるかということでした。私達も全く 同じではないでしょうか。新年を迎えるにあたり、心から主に感謝と栄光を帰したいものであ ります。たとえ、どんなことがあろうとも、すべてを受け入れ、悔い改め、讃美、喜びの心を 持って生きたいものです。



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