巻頭言
2000年12月


2000年12月 3日

「祈りによる伝道」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

ザカリアが香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。(ルカ1:10)

ルカはクリスマス物語を、祭司ザカリアが民衆の祈りの支えのもと、神殿の中 で香をたいていることから書き始めます。つまり、御子の誕生は、貧しい民衆 の祈りが土壌となっていると強く主張しているのです。ここにルカ独自の「民衆史観」 があります。

当時のイスラエルは、ロ−マの圧政下にありました。人々は疲れ果て、生きる気力を 喪失していました。また、彼らは明日が見えないという焦燥感と絶望感に見舞われてい ました。彼らは必死の思いでメシヤの誕生を待ち望んでいたのです。そのような暗黒の中で 「大勢の民衆が皆外で祈っていた」のです。確かにクリスマスは、貧しい民衆の叫びと 祈りが積み重ねられた後に、起こったのでした。

教会とは「祈る群れ」です。悪魔は真実な祈りには勝てません。「どんなことでも、 思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているも のを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの 心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(フィリピ4:6〜7)

思い煩いからは何も生まれませんが、祈りからは偉大な何かか生じてきます。世界の歴史 を変革してきたのは、一握りの英雄たちなのではありません。むしろ、底辺の所で、 苦しみながら生き抜いた民衆こそが、本当の歴史の担い手でした。私たち日本人は英雄 伝説を好む傾向がある気がします。しかし、英雄は結局は、民を苦しめる事が多いのです。 貧農の出であった太閤秀吉は、検地や刀狩りをして、益々、貧農夫自身を困窮に追いやり ました。人間は自己保身に傾く罪性があるからです。しかし、イエス様は自分を投げ出されました。 民衆もまた、自分を無にして、自己保身の誘惑を断ち切り、必死で戦い前進していきます。 この地道な生き方が求められるのです




2000年12月10日

自分の十字架を背負って

牧師 犬塚 修

それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、 自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、 それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。(ルカ9:23〜24)

私たちにとって、「自分を捨てる」ことは本当に難しいことではないでしょうか。 どうしても自分が正しいと思いたいからです。そうでないと、自分の価値観や存在 感が失われるように感じてしまうのです。その最も悪い見本が独裁者の存在です。

ヒットラ−、スタ−リン、ポル・ポト(カンボジヤの大量殺戮者)たちは自ら神の座に つき、おびただしい無辜の人々を殺害しました。自分の考えを絶対的なものとして主張 する生き方は、恐るべき悪影響を与えます。

真摯な生き方とは自分を捨てることです。主イエス様はそうされました。主はしもべの 形をとり、弟子たちの足を洗われました。それは、無償の愛の行為でした。私たちは 人の顔はすぐに分かっても、中々、自分の顔がどんなものか分からないで生活しています。 それほど、私たちはあらゆる面で、無知な存在なのではないでしょうか。自分の罪深さ、 醜さを痛感して初めて、相手の心の痛みが分かりかけてきます。

自分の十字架を負うとは、自分に死んで生きるということです。自分の正義感が砕け散り、 罪人の頭としての自分に目覚めることです。その時、私たちは謙遜な人間として再出発し ます。確かに自分の欲や思いを断ち切ることは中々できませんが、それでも必死の思いで、 相手の意見に耳を傾け、その言葉にも真実があると気づき、人から教えられて生きることです。 すると神のご計画が見えてきます。自己絶対化は罪の法則です。私たちは、この悪の傾向に陥ら ないように自戒し、謙遜と柔和と愛の道を歩みたいものです。




2000年12月17日

今は恵みの日

牧師 犬塚 修

そ恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、 わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、 今こそ、救いの日。 (第二コリント6:2)

「ウ−ン、これは困ったことになった。どうしたら良いのだろうか…。」と頭を抱える時 は、実は神の祝福を得る絶好のチャンスです。ふつうはこんな時を「最悪だ」と言って 嫌います。しかし、キリスト信仰に生きる者にとっては、わが人生に悪いことなど、起こ るはずもないと確信して良いのです。そして、神はいかに驚くべき救いのみわざを起こさ れるかを大いに期待するのです。

処女マリヤは結婚していなかったにもかかわらず妊娠しているという天使のみ告げを受けた のです。その時、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」 (ルカ1:38)と応えています。私たちはできるだけ、問題に巻き込まれないで楽に生きていき たいと願うことはないでしょうか。しかし、人生の勝利は、危機的な時に、それを恵みの時 と信じ、果敢に行動することによって得られます。もし、マリヤがみ告げを否定したならば、 クリスマスという神の愛の奇跡は起こらなかったのです。

自分の中にある不信仰、臆する霊 との戦いで、徹底的に主に頼ることです。苦しみの時こそ、私たちの中に今まで眠っていた すばらしい力がめざめるのですから。人間は追いつめられて本気になります。ですから、 惨めなこと、いやなこと、苦しみもすべて恵みの一つです。私たちは、トコトン追いつめ られて、自分の弱さや限界を痛感し、死にもの狂いで、信仰によって立ち上がります。 主の力により、本気で祈り始めます。また、問題と格闘します。確かに試練は私達を成長さ せる良い教師なのです。水のない荒野の中で、サボテンの花は力強くまた美しく咲くのと 似ています。




2000年12月24日

クリスマスの喜び

牧師 犬塚 修

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは 思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。 (フィリピ2:6〜7)

メリ−・クリスマス!キリストは神の子としての栄光を捨て、飼い葉桶の中に貧し い人の子として誕生されました。それは私達の罪を担い、かつ苦しみを共になめるた めの永遠の愛から生まれた決断でした。何とキリストは自らしもべとなる道を選ばれ たのです。これは驚くべき生き方でした。

私たちもこの主に従う時、しもべとして生き ることがどんなに大きな祝福となることでしょうか。心からへりくだる時、恵みの世界 が見えてきます。謙遜な人は神と人に仕えることを喜びます。心が高ぶっていると、中 々そうはいきません。主を「心の飼い葉桶」にお迎えするためには、自分をしもべとして 感じ取ることです。それはまた、自分の「被害者意識」から解き放たれることでもあります。 「どうしてこんな悲しいことが…」と自分の不幸を嘆く時があるかもしれません。しかし、 キリストの十字架の道を思い出す時、悲しみは喜びと変わります。私たちの比較は人とする のではなく、キリストとすることです。すると、すべてが感謝できるようになります。 キリストほど、数多くの辛酸を嘗め尽くした人はいないからです。

私たちは自分の罪性を 知りパウロのように「私は罪人のかしらです。」と告白したいものです。そしてこの自 分がいかに人を害してきたかを悟り「加害者意識」を持つ事です。その時、主の十字架 の意味が迫ってきます。自分が罪人であるという自覚が出た時、私たちは義人というプラ イトから解放され、赦されるしか生きられないというしもべの道を歩くようになるのです。




2000年12月31日

天国を待ち望んで

牧師 犬塚 修

然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。主イエスの恵み が、すべての者と共にあるように。(ヨハネ黙示録22:20〜21)

20世紀は今日で終わりを告げる事になります。この世紀、この百年、この一年は私たち にとってどんな意味と意義があったでしょうか。様々な事が胸に去来する事でしょう。明日 からは21世紀に突入します。私たちは新しく信仰の翼を張って、天高く、神の摂理という 大空に飛立ちたいものです。

黙示録の末尾において、ヨハネは、「主イエスよ、来てください。」 と目を天に向けて祈りを捧げています。この地上の出来事だけに目を奪われると、無念さ、 口惜しさ、怒り、痛みなどが根深いまま、傷を持つ残像として残ってしまいます。平安に満ちた 信仰とは主の再臨と天国を仰ぎ望む生き方から生まれます。万一、これらがなかったとしたなら ば、私たちの信仰生活は空しく、惨めなものにすぎません。しかし、光り輝く天国は確かに存 在するのです!

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの 父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと 言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを わたしのもとに迎える。」(ヨハネ14:1〜3)これはイエス様の確固たる言葉です。

またパウロは 「彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。 しかし、 わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、 わたしたちは待っています」(フイリピ3:19〜20)と力強く書いています。新世紀を迎えるにあ たり、天国の民としての確信を持ち、どんな時でも従順に主に従っていきたいものであります。



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