巻頭言
1999年11月


1999年11月 7日

「伝道に励む教会」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

「それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、 毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた」(使徒言行録5:41〜42)

10月は「へりくだって悔い改める教会」がテ−マでした。熱心に悔い改める教会に主はすばらしい将来を約束さ れます。悔い改めつつ、共に力を合わせて力強く伝道に立ち上がりましょう。

特に今月は特伝の月です。 田中信生先生をお迎えできます事はすばらしい恵みです。師はご存知のように日本中で最も用いられている 牧師のお一人です。是非とも、この絶好のチャンスを逃さないようにしましょう。私はすばらしい集会を終え た時に「あぁ、あの人を誘えば良かった…」と思ったことが何度もありました。しかし、後悔してもどうしよ うもありませんでした。このようなチャンスは中々巡ってこないと思いますので、全力を尽くしたいものです。

全身全霊を傾けて、愛する人達を誘うならば、どんな堅い門も開かれます。そのためには祈りが不可欠です。 祈りこそが最大の武器です。また、イエス様のために辱めを受ける覚悟をしてかかることです。人を教会に導く 事は決して易しいことではありません。悪魔が邪魔するからです。しかし、使徒たちが、辱めを受けたことを 何よりも光栄に感じたように、私たちにとっても、伝道こそが私たちにとって最高の使命なのです。

「バプテス マを受けてからの人生で自分のする事は二つである。一つは罪を犯す事、もう一つは伝道する事である」と。この 言葉を読んだ時、私はハッとさせられました。そしてどんな時でもみ言葉をのべ伝える事の重要さを知らされた 事でした。




1999年11月14日

御国で会いましょう

牧師 犬塚 契

しかし、わたしたちの本国は天にあります。 (フィリピ3:20)

友人の結婚式、スピーチをお願いされた。感謝な事であるから、喜んでお受けした。 「多くの人々に祝福されて始まった今日はスタートで、大事なのは天に召される時で あると思う」とスピーチした。召される前、「あなたに会えてよかった、あなたと結 婚して幸せだった。また御国で会いましょう」と言えたら100点である。

タイタニッ クを長い行列を待ち、見たことを思いだす。二流の恋愛ものがどうしてあんなに流行 ったのかわからないが、ひとつ教えられた事がある、人は生きたように、死ぬ。この 世に執着してきた人は、蹴落としてまで救命ボートに乗った。まもなく沈没する船で、 両手を握り合って横になり死を待つ老夫婦がいた。最後まで、楽器を演奏し続けた音楽 隊がいた。「生き様は死に様」であるのだ。

イエスキリストは、いつも神の国の話を した。弟子達はそれがわからなかった。復活後もいよいよ自分の表舞台に立つ時だと勘 違いした。(使徒1章)天に上げられて行くイエスを見、やがて雲しかない青空を見つめ た。また、取り残されたと感じただろう。ポカンと何もない青空を見つめつづけた弟子 達を想像してしまう。そんな弟子達に御使いが、再臨を約束し、弟子達はようやく伝道を 開始するのだ。

ヘロデ王は、幼子イエス殺すのに失敗したけれども、ピラトとヘロデ・ アンティパスは十字架につけるのに成功した。この世の悪の勝利に見えた。十字架は、 敗北のしるしでしかなかった。しかし、神の目においては、神の勝利であったのである。 キリストの十字架の勝利であったのである。罪からの決定的な勝利だったのである。こ の十字架に裏付けられ、わたしたちは召される前、確信して言う事ができる。「御国で 会いましょう。」




1999年11月21日

特別伝道集会を迎えて

牧師 犬塚 修

初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。 43:19 見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。 あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き 砂漠に大河を流れさせる。 (イザヤ43:18,19)

私たちの教会にとって1900年代最後の特別伝道集会を今迎えようとしています。 これまで10000枚のチラシを配りました。そして今回は始めて250名という数多く の出席者を目指しています。そのためには私たちが総動員体制で臨み、かつ一人 が3名以上の愛する友を誘うことが必要となっています。最後まで力を尽くしたい ものです。

私は堅く信じています。主は世紀末のこの時に私たちに新しいことを なそうとしていることを。今まで労苦して蒔いてきた種がようやく芽生え始めていると 信じています。それは人知をはるかに超えたすばらしい主の救いのみわざであります。 荒れ野に道を敷くことはとても難しいことです。また、砂漠に大河を流れさせるなど、 考えられないことです。しかし、主はそれをなすと約束されました。

私たちはその 約束を信じて、信仰に立ち続けることが肝要です。不可能に近いことでも主は驚くべき 救いの御手を差し伸ばされます。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実 を確認することです。(ヘブライ11:1)」「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。 疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。 そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。(ヤコブ1:6,7)」主の み前に真剣に祈り、勝利を待ち望みましょう。主は近いのです。

「恐れることはない、 わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを 助け わたしの救いの右の手であなたを支える。(イザヤ41:10)」




1999年11月28日

この渇きがなければ…

牧師 犬塚 契

飽き足りれば、裏切り、主とは何者か、と言うおそれがあります。(箴言30:9a)

御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとり なしてくださるからである。(ローマ8:26口語訳)

今日、講壇の上にローソクが一本灯った。いよいよ、アドベント(待降節)が、始まった のだ。特別伝道集会が、一方的な恵みの中に終わり、クリスマスがもうすぐやって来る。 ラジオでは、山下達郎が流れ、街は、赤と緑のクリスマスカラーに包まれる。一年のうちで、 一番、電飾が使われる季節になった。

待降節とは、字が表すように、救いを待ち望み、 心を準備する時である。言葉を変えてみれば、救いを待ち望んでいるか?救いに飢えてい るか?心渇いているか?と問われている時である。心に渇きがなければ、救いを待ち望も うなどとは思わない。救いの必要を感じないからである。

この渇きがなければ、教会なんか来ていなかった、来ていない。そう思うときがあるだろ うか。渇きは、苦しいし、痛みが伴うし、できればないほうがよいと思う。しかし、この 渇きがなければ、わたしたちはすぐにでも、『主とは何者か』と言ってしまうように思う。

人に言えない渇きがある、表現できない渇きがある、わかってもらえない渇きがある。しかし、 否、だから、救いを待つのである。だから、神様に期待できるのである。

ただのローソクでなく、この待降節の時、もう一度、『この渇きがなくば…』という思いを もって、神様に期待していきたいと願う。そして、神様は必ず、渇きに答えてくださると信じ ている。



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