巻頭言
1998年11月


1998年11月 1日

召天者記念礼拝を迎えて

牧師 犬塚 修

こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれて いる以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走 を忍耐強く走り抜こうではありませんか。(ヘブライ12:1)

既に天に召されていった愛する方々が「証人の群れ」であります。そして、私たちは 彼らに囲まれているのです。口語訳では、「多くの証人に雲のように囲まれて」と あります。白く輝く美しい雲は、神の栄光を表すものでした。このように、主にあって 死んだ人々は神の懐に安んじ、栄光に輝いているのです。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。 わたしの父の家には住む所がたくさんある。」(ヨハネ14,1,2) と主は天国の 実在を力強く語ってくださいました。私たちは「死んだ後、どうなるのか、サッパリ わからない」というのではなく、明確に天国があって、そこで永遠の幸福感に満たされる のです。何という喜びでしょう。

私たちは皆、罪人にすぎませんので、絶対に天国に凱旋することはできません。しかし、 「イエスの血潮、汝を清む」です!無価値な者を「価値あり」と宣言される主は、 弱い私たちに栄光の冠を戴冠し、義(キリスト)の衣をまとわせてくださるのです!

そして、先に召された主にある兄姉は、そのことの証人なのです。私たちも、いつの 日か、肉体を脱ぎ捨てて、天に飛翔する日を迎えます。それは歓喜の日、勝利の 日であります。故に、私たちは全力を尽くして、この世で主のために労し、人々を 愛して走り抜くのであります。天国の門を目指して。



1998年11月 8日

「礼拝と世界」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

すべての国よ、主を賛美せよ。すべての民よ、主をほめたたえよ。(詩編117:1)

「ビルや、世界がお前を待っているのよ。」これは、救世軍の創始者ウイリアム・ ブースの母親がお腹の中にいるウイリアム(ビルのこと)に語りかけた言葉として有 名です。彼は、生まれる前から、母の愛と祈りによって祝福されていたのです。そし て、母の大きな希望をのせて生まれた幼子は、後には輝く巨星となっていきました。 「私にはこの世界で果たすべき任務がある」という強い確信が、彼の人生の支柱とな りました。彼は苦難を挫折の日、母の祈りを思い出したことでしょう。そして、不死鳥 のように立ち上がったのです。世界とは、彼にとって神の栄光の舞台でした。彼は、 全身全霊を尽くして、神の福音を宣べ伝える人となっていきました。

主は、私たちを召し、貴い使命を与えられました。それは、苦しみ呻く世界を僅か であっても改革していく働きであります。「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、 あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の 預言者として立てた。」(エレミヤ5:1)

そして、私たち一人一人も、エレミヤに似ています。なぜならキリスト者とはこの 世界に置いて預言者としての使命が記されているからです。たとえ、遣わされた所は 異なっていても、主の復活の証人、福音の宣教者としての使命は同じなのです。直接 的か、間接的か、また、言語的か非言語によるかに関わりなく、私たちは世界の唯中 に置かれている証人として、力強く生きていきたいものです。



1998年11月15日

幼児祝福式を迎えて

牧師 犬塚 修

「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに 入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。 (マルコ10:15,16)

子どもたちは大人の見失ってしまった素晴らしい所を豊かに持っています。 それは、単純さ、純粋さなどです。この厳しい世の中で生き抜こうとする と、ずる賢さ、狡猾さ、率直さ、利己心、自己防衛、損をしたくない心に なっていきます。相手との駆け引きに長じている人が、いわゆる成功者と 言われていくのです。

しかし、主イエス様は、本当の人生の勝利者は子ども なのだと断言されました。何故なら、天国の門は、謙虚さという鍵によって 開かれているからです。謙遜とは、自分の弱さをありのままに認め、主に 信頼し、任せる心のことです。どんなことがあっても、「神は愛である。 この御方のされることは全て、美しい」と言い続けていくことです。

幼子は、母親に叱られても、泣きじゃくりながらも、母の胸に飛び込んで いきます。彼らには、母の愛を疑うことは全くないのです。しかし、年を 経るに従って、少しづつ疑いと不信が芽生えてきます。知恵や自立の面では、 これらのものが必要ですが、対神の関係では無益です。神の国は私たちの 目の前に置かれています。喜んで感謝し、受け入れる人は、永遠の命の中に 置かれるのです。

敬愛する藤川花子姉が帰天されました。姉は正に子どものような 信仰をもって主に従い抜かれた方でした。私たちも、主のみ前に幼子のような 生き方を貫きたいものであります。



1998年11月22日

主を求めて生きよ

牧師 犬塚 修

まことに、主はイスラエルの家にこう言われる。わたしを求めよ、そして生きよ。 (アモス5:4)

昨年の自殺者は10年ぶりに24,000人を超えてしまいました。一昨年より、 5.6%も増えた主な原因はバブル崩壊後のリストラや賃金苦による心労な どでした。とくに、中高年層が激増しています。自殺未遂を加えると自殺 に走る人は、統計の10倍以上に達すると言われています。

何故このような 危機的状況になってしまったのでしょうか。元来、これまでの日本社会は 「ガンバレ、ガンバレ」の競争原理に支えられてきました。皆「このまま では良くない。もっと努力をしなければならない」という強迫観念や過度 の責任感、そして、ストレスが心を支配してきた感があります。

また、心 の面で我慢ばかりしていると、次第に自尊心を失い、自己否定や自己卑下 に陥り、「私は生きていく価値がない」と思いつめてしまうのです。これ らの根本的な考え方はすべて「成績や業績中心主義」だけに立っています。 つまり、どれだけ優秀か、有能か、役に立つかでその人の価値が決定され るのです。この価値観に支配されると、自分を許すことも人を無条件に受 け入れることも出来なくなります。

しかし、主なる神は私たちを「業績」 の面ではなく、「存在」の視点からご覧になります。つまり、万一、働き が無くても「あなたは私にとって宝石に等しい」と宣言されます。主は私 たちの命のために、御子を十字架の死に追いやられたのです。それ程に私 たちの存在、命の価値は尊いとされたのです。私たちは、愛してくださる 主を求めることによって、力強く生きることができるのです。



1998年11月29日

「世界祈祷日礼拝」を迎えて

牧師 犬塚 修

こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛 していることを聞き、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。 (エフェソ1:15,16)

キリストを信じる信仰は、個人的なものにとどまることなく、エネルギッシュ に外へ、また、全世界へと広がっていくものなのです。世界の片隅にあった エルサレムから始まった福音は、はるかエーゲ海を渡り、全ヨーロッパへ、 また、アジア、アフリカ、南北アメリカへと伝播されていきました。

この2000年間の歩みは、正に、「神の宣教」の歴史でもありました。今朝、 私たちが心を一つとして、世界の救いのために祈りあえることは、大きな 喜びです。

さて、パウロの目は絶えず世界に向けられていました。彼は、異邦人が信仰の 従順にいたるようにと大きな夢を抱いていました。そしてまた、彼は、「まず 初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に 感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられるからです。」 (ローマ1:8)と感謝していました。ローマのキリスト者の信仰は素晴らしい 輝きを放っていたからです。

私たちも、全世界に出て行きたいものです。まだ、一度も福音を聞いた ことのない人々に対して、大胆に宣べ伝えたいものです。「わたしは、 ギリシャ人にも未開の人にも知恵のある人にもない人にも、果たすべき 責任があります。」(同1:4)感謝の心に宣教の情熱ととりなしの祈り を加えて、力を合わせて戦いぬきましょう。

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