巻頭言
2023年11月


2023年11月5日

「呼びかける声」

草島 豊協力牧師

慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。 エルサレムの心に語りかけ彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。 呼びかける声がある。主のために荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために荒れ地に広い道を通せ。            <イザヤ書40章1-8節>

 バビロン捕囚の末期にユダの人々に語られた預言は39章までの厳しい言葉とは打って変わり「慰めよ」で始まる。「わたしの民を」は人々の中にあった疑いの一つ「神はわれわれを見捨てたのだろうか?」に対する返答でもある。わたしはあなたを見捨てない、あなたはわたしの民なのだ、と。「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」は、この世界がどれほど移ろいやすくても神がイスラエルとかわした契約を破られない、だから神に信頼せよと神に立ち返っていくことを促す。  これら神の恵みの言葉を聞きながら、はたと悩んだ。現在イスラエルがガザで行っているジェノサイト。「わたしの民」という呼びかけは、今でも人々の支えである。神とイスラエルとの約束は破られない、私たちは選ばれたのだと。しかし選ばれた民、本当にそうか。これは「わたしの」と言ってもらう資格もない私たちに神が呼びかけているという神の無条件の愛に力点があるのではないか。私たちが選ばれた主の民で救われ、他の人々は救いの外にある、そんな発想はユダヤ人だけではない。しかし救いは、権利や資格か。バプテスマを受ければ救いの資格を得るのか。イスラエルの民は神から選ばれた資格を持つのか。何度も何度も過ちを犯す人間。その人間を何度も何度も許す神。人間はいったいどんな資格を神から得たというのか。「救い」はただただ、神からの恵みでしかない。人が、主張し誇れるものなんて何もない。誇るのは、ただ神の恵み、寛大さ、愛の深さ。そこには感謝以外にはない。人が信じようが信じまいが注がれるのが神の恵み、神の愛。そして神の恵みはパレスチナの人々の上にも等しく注がれている。では信じる事、信仰を告白することは意味がないのか。そうではない。信仰告白、バプテスマは、神の恵みがあるのだという自覚。その自覚が苦難の中で、絶望の中で光を放つ。私たちがなすのは、ただ恵みへの感謝、恵みへの応答、そして神の恵みの分かち合いではないか。



2023年11月12日

「神の選んだ僕」

犬塚 契牧師

見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく暗くなってゆく灯心を消すことなく裁きを導き出して、確かなものとする。 <イザヤ42章1?9節>

 神の僕(しもべ)シリーズは、イザヤ書後半に4つ登場しますが、42章はその最初です。「見よ、わたしの僕…」と神の推薦を受ける僕ですから、さぞかし立派な指導者と思って読みすすめるとその姿は意外です。「彼は、叫ばす、呼ばわらず、声を巷に響かせない…」。そんなリーダーシップは成り立つのでしょうか。選挙であれば、そんな公約で当選を果たすでしょうか。あまり想像のつかない僕の姿です。その続き…。「傷ついた葦を折ることなく…」この神の僕は、傷ついた葦を折れぬほどにやさしさを持っているか、僕自身が傷ついた葦であるかのどちらかでしょう。暗くなっていく灯心が消せないのは、最後のひと吹きにためらいがあるか、力が残っていないかのどちらかでしょう。▲マタイによる福音書は12章で、手のなえた人を大切にする主イエスが登場します。マタイは、この箇所を引用しつつ、神の僕が主イエスキリストであると受けとめたようです。その主イエスは、自分の死が迫っても、弟子たちをけしかけるでもなく、ローマにも宗教的指導者たちにも反旗を掲げるでもなく、十字架への道を行きます。▲神の選んだ僕とは、やはり主イエスのことでしょう。そして、私たち自身のことでしょう。負け戦を行く以外になく見える道をとぼとぼ行きます。声も上げられぬまま、巷に響かぬままに。それでも「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を」との神の声だけが確かにその僕を支えます。



2023年11月19日

「国々の光」

犬塚 契牧師

 わたしは思った。わたしはいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのもわたしの神である。…こう言われる。わたしはあなたを僕として、ヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして、わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。          <イザヤ書49章1-6節>

 着なれないガウンを羽織り、葬儀場や火葬場を歩けば、名乗る前に「先生」と呼ばれ丁寧な案内で、先頭を勧められます。そして、牧師は知っている言葉からでなく、知らされ信じる言葉の何かを話します。それが宗教者の役割だろうと思います。しかし、信仰をもって語ったとして、なお空の言葉でしょう。それでも空の言葉の力、穿つ力があるのだとも信じています。▲上記聖書箇所、無名の預言者が疲れ果てています。母の胎にあった時から、召された預言者は神の秘蔵っ子のはずでしたが、現実は厳しいものでした。バビロン捕囚後の解放、祖国帰還に民の心は踊らず、猛烈な反対にあいます。期待のペルシャの王キュロスは、バビロンのマルドゥク神に額づき化けの皮が剥がれます。預言者の言葉は空となり、労苦は無駄に終わり、この活動の虚しさを覚えています。▲預言者は再び神の召しを新たに受けていきますが、「だがそれにもまして」という逆説を含んでいます。「一層、かろんぜられることだが」(岩波訳)とも訳されます。なぜ、かろんぜらつつ、「救いを地の果てまで、もたらす」ことができるのか。渦中においては意味不明だったでしょう。時々そこを通ります。



2022年11月26日

「子ども食堂と5000人の給食」

平野 健治牧師

日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるで しょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての 人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」 というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。   <ルカによる福音書9章10-17節>

 平塚教会では月2回「こども食堂」を開催しています。1食200円で誰でも利用できる地域交流の食堂です。こども達のおしゃべりをしながら食べる姿がとても楽しそうです。一人暮らしのおばあちゃん4人組が来て、大きな笑い声が礼拝堂に響きます。3か月の赤ちゃんとママが来ました。おばあちゃんたちが赤ちゃんを抱っこしています。メンバーの7割は地域のボランティアさんです。地域の人と力を合わせて取り組んでいます。地域の方から魚やパン、いろいろな物をもらいます。活動を始めて3年になりますが、累計の利用者は5000人を超えました。いつの間にか私たちの小さな教会はパンと魚が集まり、5000人が食事をする教会になりました。今日の聖書の個所と自分たちが、とても重なります。聖書によると、弟子たちは一人一人別々に食べるべきだと考えました。そこにイエス様は「あなたが食事を準備しなさい」という“大食堂命令”を出しました。そして奇跡の食事が始まりました。食べ物が集まり、みんなで食事をする奇跡は、私たちのこども食堂で繰り返されています。この活動は私たちの教会の大事な宣教です今日、聖書からどんな生き方が指し示されているでしょうか。まず一緒に食事をすることは大事だということです。私たちはもっと一緒に食事を食べましょう。分かち合いましょう。イエスは「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい」と言います。それはみんなで分かち合って食べる生き方をしようということが指し示されています。そして教会は地域の必要をもっと知り、応えてゆくべきとも言えるでしょう。ひとりの足りない食事から、分かち合いとにぎやかな食事が、世界に広がってゆくことを願います。聖書はそのような世界、この5000人のような世界を求めているのではないでしょうか。イエス様の「あなたがたが食べ物を与えなさい」という言葉はそのような生き方を指し示しているのではないでしょうか。 




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