巻頭言
2022年11月


2022年11月6日

「エルサレムへの想い」

犬塚 契牧師

王に答えた。「もしも僕がお心に適い、王にお差し支えがなければ、わたしをユダに、先祖の墓のある町にお遣わしください。町を再建したいのでございます。」           <ネヘミヤ記2章1-10節>

 教会学校、礼拝では、エズラ記に続いて、ネヘミヤ記を読んでいます。ペルシャの首都スサで王の献酌官だったネヘミヤの話です。ただの味見役ではありません。謀略渦巻く宮中において、王は彼が食べた後に食し、彼が飲んだ後に王が飲みました。最も信頼されていたのでしょう。不思議は、バビロン捕囚からの解放から100年は過ぎているような中で、ネヘミヤは見たことも行ったこともないエルサレム神殿の城壁が荒れていることを聞いて胸を痛めたことです。そして、王に願い出ます。「わたしをユダに、先祖の墓のある町にお遣わしください」。11年前の東日本大震災で行方不明になった家族を今も海に探している人がいます。今年、知床で沈没した遊覧船の乗客の何か証しを海岸線に探す人たちがいます。80年前のアジア太平洋戦争でまだ見つからない130万人の遺骨を集める人がいます。特別な働きだと思います。ネヘミヤもそうだったのでしょうか。もしくは、残された「旧約聖書」の記録から、自分のルーツを知り、主なる神の約束とその足跡の続きを生きたいとの願いでしょうか。ネヘミヤ記の1章は、これまでの罪の悔い改めと神の憐みへの切実なる希求が書かれていました。王の許しを得ての働きですから、「打倒、ペルシャ。祖国イスラエルの再建と独立」の旗揚げでもないはずです。当初よりも長い滞在になりましたが、後にネヘミヤはペルシャに戻って仕えます。▲エズラ記、ネヘミヤ記を読みながら、「帰るべきところの再建とは何か」…そんなことを考えています。過去の栄華や繁栄の一点に復元ポイントを求めることの危うさを覚えています。歴史は解釈で変わります。神殿の歴史は、ソロモンの神殿、今読んでいる第二神殿、イエスキリストの時代のヘロデの神殿と3つが建ちました。しかし、それ以降2000年が過ぎていますが神殿が建つことはありませんでした。伝道者パウロは、コリントの教会に書きました。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」。▲今日を救われた日としたいのです。今日を「インマヌエル(神われらとともにいまし)」と呼ばれる神との出会いの日としたいのです。人は救われ続けるのだと思います。



2022年11月13日

「城壁を建て直す」

犬塚 修牧師

 やがてわたしは彼らに言った。「御覧のとおり、わたしたちは不幸の中であえいでいる。エルサレムは荒廃し、城門は焼け落ちたままだ。エルサレムの城壁を建 て直そうではないか。そうすれば、もう恥ずかしいことはない。」神の御手が恵み深くわたしを守り、王がわたしに言ってくれた言葉を彼らに告げると、彼らは「早速、建築に取りかかろう」と応じ、この良い企てに奮い立っ た。…そこでわたしは反論した。「天にいます神御自ら、わたしたちにこの工事を成功させてくださる。その僕であるわたしたちは立ち上がって町を再建する。あなた たちには、エルサレムの中に領分もなければ、それに対する権利も記録もない。」 <ネヘミヤ記2章11-20節>

 蝉の一生はわずか、7日間の短命と思われているが、実はそうではない。幼虫として7年間、土中で静かに成長しているのである。創造の神は私達人間を、長い年月をかけて育て、整え、成長させてくださる。ゆえに、私達は自分や人の人生を軽く見て卑下したり、逆に、傲慢になったりしてはならない。また焦ったり、イライラしてはならない。神は自分の民を、ペルシャからエルサレムに帰還させる時、二倍もかかる遠回りの道を通らされ、何と4ヶ月もかかった。歩くスピードも、非常にゆっくりしたものであった。それが神の遠大なご計画であった。「象の時間・ねずみの時間」という本には、これらの生き物は哺乳類であり、一生の間の心拍数は同じ20億回ぐらいと書かれていた。象がゆったりと構えているので、長命であるのに比べ、ねずみはセカセカしているので短命だと言われる。ストレスや思い煩いや心配事は、人間の心拍数を早めてしまう。主のご支配を信じ、一切を任せ、平安をもって生きたいものである。▲ネヘミヤの目―しかし、ネヘミヤは何も考えず、極楽とんぼのような生活をした訳ではない。その逆である。彼はエルサレムに到着して三日後、街の壊れた城壁を調べ、一つ一つの壁を丹念に調べている。そこに、彼の悲愴な思いが籠もっている。それは同時に、壊れた壁を静かに見つめる神の憐れみの目に似ていた。神は彼らの苦しみと傷を見て、力強く再建を決意された。▲ネヘミヤの決心―彼は、神の恵みに支えられて城壁の建て直す決心をした。それは人間の努力だけで、完成できるものではなく、「神の御手」によって初めて可能であった。その作業は、サンバラトなどの妨害があったが、神が力を注いで下さったので、わずか52日間で完成した。▲現実は厳しく、試練や困難が横たわっている。あらゆるものが衰え、弱くなり、秋の木の葉が落下するように、すべてのものが無に帰すように思う時があっても、その下で受け止め、支えて下さる「お方」―イエス・キリストがおられる。自分の目には悲しみの種に見えても、それを用いて、真の解決に導かれる神を確信して大胆に進む事が、私達の生かされる人生の使命である。



2022年11月20日

「ラッパを吹き鳴らせ」

林 大仁神学生

民は皆、水の門の前にある広場に集まって一人の人のようになった。彼らは書記官エズラに主がイスラエルに授けられたモーセの律法の書を持って来るように求めた。祭司エズラは律法を会衆の前に持って来た。そこには、男も女も、聞いて理解することのできる年齢に達した者は皆いた。第七の月の一日のことであった。彼は水の門の前にある広場に居並ぶ男女、理解することのできる年齢に達した者に向かって、夜明けから正午までそれを読み上げた。民は皆、その律法の書に耳 を傾けた。…エズラは人々より高い所にいたので、皆が見守る中でその書を開いた。彼が書を開くと民は皆、立ち上がった。エズラが大いなる神、主をたたえると民は皆、両手を挙げて、「アーメン、アーメン」と唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝した。     <ネヘミヤ記7章72-8章12節>

 毎年9月から10月になる頃に、今もイスラエルでは、新年祭を持ちます。今年のユダヤ新年は、9月26日〜27日でした。ネヘミヤ8章の2節に書いてある第七の月の一日がそれです。ユダヤ教では、この時に、一年間の罪を悔い改め、神から罪の赦しを頂き、そのことに感謝する儀式を行います。一日目にショファルと呼ばれる角笛が鳴り響くと、その時から悔い改めを始め、10日目に大贖罪日を持ち、更に五日後に救いを記念する仮庵祭りを行うことで、新年を始めるのです。ネヘミヤ8章1節〜12節は、紀元前5世紀頃、エルサレムで行われた当時の新年祭の様子を記録しています。イスラエルの人たちは、バビロン捕囚から帰ってきて、破壊された城壁の補修を終えたばかりでした。彼らは、水の門の前にある広場に集まります。伝統にしたがい、新年を祝うためだったのだろうと思います。ところで、彼らは、祝うために集まったその場で、エズラに律法の書を持ってくるように懇願します。それから、読み上げられる御言葉に耳を傾け、主を礼拝し、御言葉の内容を聞いて理解し、意味が分かった途端、泣き崩れます。泣いた人が一部なのか、全体だったのか、定かではありませんが、神様からの御言葉を聞いた時に、そこから深い悔い改めの心が起こされ、また同時に、それでもなおかつ自分たちに救いの手を差し伸べる神の愛への感謝の念が溢れ、複雑な感情の涙の大合唱になったであろうことは、想像に難くありません。ここに、今日のわれわれの礼拝に臨む姿勢、神様の御言葉に対する心が問われるような気がします。私たちは、主から御言葉が語られる時に、罪を告白し、悔い改め、今日もまた、そういう醜い私たちの不義や過ち、罪を許し、清めて下さる神の愛に、感激し涙したりするような信仰を保ち続けているのでしょうか。ラッパの音は、われわれが、もはや罪から解放され、神の救いの下に移されていることを万邦に告げ知らせる宣言です。とするならば、われわれは、誰に対し、ラッパの音を聞かせ、その人を罪から解放し、神の御許に導くのでしょうか。今日の本文には、男も女も理解することの出来る年齢に達した者は皆集まったと書いてあります。私たちの信じる神は、天地創造の神、真の神です。クリスチャンの数が1%にも満たないからと言って、その事実が変わるものではありません。とするならば、われわれは、その大事な福音を誰にまず知らせ、主なる神に導くべきなのでしょうか。水の門の前の広場に集まり、神を礼拝したイスラエルの民たちのように、われわれにもそのような恵みと憐れみ、祝福が与えられますことを祈ります。



2022年11月27日

「みんなで賛美」

犬塚 契牧師

その日、人々は大いなるいけにえを屠り、喜び祝った。神は大いなる喜びをお与えになり、女も子供も共に喜び祝った。エルサレムの喜びの声は遠くまで響いた。           <ネヘミヤ記12章33節>

 ネヘミヤ記の終盤です。神殿の城壁は完成し、エルサレムの町は囲まれ、守られていきました。出来上がった城壁の上を左に右に分かれて、クワイヤーが歌いつつ進みます。やがて合流し、みんなの喜びは遠くまで響くのです。実に150年近く神殿礼拝から遠ざかっていた人々にしてみれば、感激の場面でした。しかし、ネヘミヤ記はここをクライマックスにし、ハッピーエンドで閉じてはいません。1ページをめくって、13章では礼拝を生業にすべきレビ人が畑に戻り働かざるを得ず、捧げものは横流しされ、安息日は商売が行われていました。最後のネヘミヤの嘆きは、「わたしの神よ、わたしを御心に留め、お恵みください」と悲痛に聞こえます。すっきりしない終わりを少なくとも2000年以上、人々は応答的に読んできました。ここに記された神殿礼拝の復活やここからのユダヤ教の成立は、それを土にして芽生えたキリスト教にとっても、また私たちの教会の礼拝にとっても大切な出来事であるのは間違いありません。しかし、神の御想いを超えて、律法が諸刃の剣となり、裁きの芽が生まれ、相手もこちらも傷ついていきます。箱が作られ、その中身以上に大切となると形骸化が起きていきます。ネヘミヤ記はそんな痛みも含めて伝えているのでしょう。それにしても、なんと弱い、なんと淡い、なんともろい、神の力強さよ。そう思います。▲ナチス政権下を生きた讃美歌の作詞家、作家、クレッパーの話を読みました。望まぬ方向に向かう国の有様といのち脅かされるユダヤ人の妻と子どもたち。そんな中で彼は信仰告白を残します。「神が存在しないとしても、私は、神が存在するという、この誤謬の中で生きることより以上に人生において賛美すべきことを見出しえないだろう。この誤謬は、一切の真理や現実よりも偉大だろう。そこから生まれる苦難のすべてをもってしても、その事実をいささかも変えはしない」。(ヨッヘン・クレッパー)すぐにでも引きはがせるような、なんという弱い力で神は人を圧倒しているのだろうと思わされています。そして、そんな力にどこか静かに感動を覚えています。 




TOP