巻頭言
2021年11月


2020年11月7日

「希望に生きる」

犬塚 契牧師

【賛歌。歌。安息日に。】いかに楽しいことでしょう、主に感謝をささげることは。いと高き神よ、御名をほめ歌い…神に従う人はなつめやしのように茂り、レバノンの杉のようにそびえます。主の家に植えられ、わたしたちの神の庭に茂ります。白髪になってもなお実を結び、命に溢れ、いきいきとし述べ伝えるでしょう。わたしの岩と頼む主は正しい方、御もとには不正がない、と。  <詩編92編>

 ハードディスク録画もYOUTUBEもなかった時代。まだうちにはデッキもなく、買うべきは、VHSかベータか迷っていた時代。テレビ番組は見逃せば、二度と見られませんでした。日曜日、午前中は泣く泣く礼拝に出かけました。神学部で成人してからクリスチャンになった友人から「ケイ君は、小さい時からずっーと礼拝できたんでしょ。いいなぁ。うらやましい」と心底言われて、損した気持ちがなんだか晴れていきました。安息日に教会に向かい礼拝に参加できることの幸いをようやく知ったのでした。▲詩編92編の1節…【賛歌。歌。安息日に。】かつて土曜日、今は日曜日。安息日に歌われた歌のようです。「いかに楽しいことでしょう」とはじまります。なるほど、礼拝は義務でも付き合いでもなく、楽しいことであり、喜びでした。続きを読むと…。十弦の琴、竪琴…あらゆる楽器が奏でる賛美で、「御業」「御手の業」「御計らい」が覚えられています。そんなに神の御業はとは、素晴らしものだったかと頭に「はてな」が浮かぶならば、容赦なく次の節がやっています。「愚かな者は、それを知ることなく/無知な者はそれを悟ろうとしません。」…頭の中では、なぜか関西弁に変わって「アホちゃうか」と聞こえてきます。そんなつっこみに促されて「御業」「御手の業」「御計らい」を、あらためて思いめぐらしています。かつてはアンビリーバボーな出来事や神がかり的な奇跡体験をイメージしていました。また、新約聖書に散らされているいくつかの奇跡と2000年後の現実の差を埋める難しさも覚えていたかも知れません。主イエスは水を葡萄酒に変え、嵐を静め、盲目の人の目をあけ、人々を満腹させ、死人を生き返らせましたが、どれひとつ目の前で叶ったことがありません。義務教育を終える頃には、教会では言えませんでしたが、聖書の記述は眉唾となっていきました。しかし、今、自然法則での説明が可能か否かに、それほどこだわりがなくなってしまいました。むしろ、大切になってきたのは、それぞれの信仰者の人生の中で、「神から語られた」と受け止める場面があることです。他人からみれば、何気ない経過の中で、その人と神様との見えないパイプがどこか繋がって、静かに、細く、ゆっくりと、確かに慈しみが流れていることが驚きになりました。そんなことに気が付いていけば、「あほちゃうか」は聞こえなくなるでしょうか。



2020年11月14日

「光が射すと」

犬塚 契牧師

あなたの定めは驚くべきものです。わたしの魂はそれを守ります。…わたしは口を大きく開き、渇望しています。あなたの戒めを慕い求めます。…わたしの目は川のように涙を流しています。  <詩編119編129ー136節>

 詩編119編は、聖書最長の長い章でした。22あるヘブル語のアルフェベット順に“いろは歌”のように信仰が歌われていきます。礼拝で読まれたのは、17番目「ペー」であり、「ペラオート」(驚くべきもの)から始まる感嘆でした。それにしても、この言葉、ただの語呂合わせで使ったのではなく、本当に驚いているのだと思います。それ故に消されずに、埋もれずに、今日まで知られる詩となっているのでしょう。思えば、私たちのまわりには、たくさんの言葉が氾濫するように溢れていて、昨日の言葉は今日もう古いかのように変わっていきます。流行りすたりのテンポは加速度を増し、目まぐるしくアップデートが繰り返されていきます。そんな中で、大切なことばを保ち続けるのは容易なことではありません。「あなたの定めは驚くべきもの」という感嘆は、詩人の聞き分けていた世界に満ちる通奏低音のようでした。▲119編ペーの詩人の置かれた状況は分かりませんが、バビロン捕囚の中で詠まれたのではないかといわれますから、国を失い、財産を失い、未来を失い、関係を失いの中にあったかも知れません。読めば随分と渇いている様子がわかります。渇望し、慕い求めています。不確かさの中を歩み続け、虐げられています。悪の支配、偶像礼拝の誘惑にもさらされているようです。わずか8節の短い詩編ですが、その中に感嘆と渇望、悲しみと喜びが共存しています。おそらくは誰の人生もそうなのでしょう。しかし、神の憐みの満ちた通奏低音が奏でられています。それは、想像以上に「驚くべきもの」であるようです。願わくば、同じ調べを耳に聞き、胸に響かせたい。



2020年11月21日

「静められない魂」

草島 豊協力牧師

【都に上る歌。ダビデの詩。】主よ、わたしの心は驕っていません。わたしの目は高くを見ていません。大き過ぎることを、わたしの及ばぬ驚くべきことを、追 い求めません。わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を幼子のように、母の胸にいる幼子のようにします。イスラエルよ、主を待ち望め。今も、そしてとこしえに。      <詩編131編1-3節>

 他人が何を考えているのか、何を思っているのかを理解することは難しい。身近な家族や恋人同士でも。さらに自分自身の事についてもどれだけ理解しているだろう。私自身「分かっている、できている」と慢心して何度も失敗してきた。また逆に自分が「できていない」と知りつつ、踏ん張って、またはやせがまんをして「大丈夫」と言うこともあるだろう。では131編の詩人はどうだったか。「わたしの心は驕っていません」と言うが、詩人は本気で自分は「できている、大丈夫」と思っているのだろうか。131編を細かく見つつ私訳してみると…  神さま、わたしは偉ぶったことも、偉そうにしたこともありませんでした。神さまのなさることに、文句を言ったことなんて全くないんです!本当なんです!私は心の叫びを静めました。赤ちゃんが乳離れするように、今はもう泣き叫びません。みんな、神さまを信じて待とう。  詩人は自分自身を見つめて、神に対して偉そうにしたことはない、文句を言ったことはないと言う。しかし神にそう語ったとき、詩人は同時に体からわき起こる魂の叫びを意識したのではないか。神に真剣に従おうとしたからこそ、神に従い切れていないことに気づいた。驕っていない、追い求めていない、魂を静めたと言いながら静められない魂を自覚しているのではないか。だから最後に「神を待て」と呼びかける。そう考えると131編の詩人は冷静に語っているというよりも、葛藤している信仰者の姿に見えてくる。私たちも心を静めるのは難しい。簡単に委ねますとは言えない。しかし、私たちが「神さまに従えていない」と思うのは心が神に向いている証拠ではないか。そして「できない私はダメだ」と悲しむ必要はない。そんな私を神が大切と見ているのだから。自分の信仰は小さくて、ちっぽけ。すごいのは神さま。それでいい。それを喜び、このちっぽけな私がどう生きるかを求めていきたい。



2020年11月28日

「主をほめたたえよ」

氷川 英俊神学生

ハレルヤ。わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく、神への賛美はいかに美しく快いことか。…主が望まれるのは主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人。…ハレルヤ <詩編147編>

 詩篇150篇のうち最後の5篇はすべてハレルヤで始まりハレルヤで終わることから、ハレルヤ詩篇と呼ばれています。ハレルヤとは主を褒め称えよという意味ですから、まさしく詩篇の最後を締め括る5編としてふさわしいと言えるでしょう。147篇にも「主を賛美せよ」という意味の言葉が8回も繰り返されています。1節に「わたしたちの神をほめ歌う」と複数形が使われているように、兄弟姉妹と一緒に主を賛美することの素晴らしさがこの詩からは強く伝わってきます。そして賛美への招きの後には賛美されるべき神の姿が描かれています。ひとつは万物を創造し、すべての被造物をつかさどる偉大なる創造主としての神であり、もうひとつは契約の民イスラエルの保護者であるめぐみ深き救い主としての神です。147篇にはこの二つの神の姿が交互に織り交ぜて美しく描かれています。創造主である神はこの世の全てのものを創造されました。そしてその神は決して休むことなく、今も我々とともにいて働いておられます。今日生きるか死ぬかも創造主である神の御心次第です。神の御前では生きるべき当然の権利を持っている人は一人もいません。誰一人神に対して生きる権利を主張できないのです。我々一人一人は今この瞬間、創造主である神の御心によってのみ生かされているのだということに感謝し、創造主である神を皆で賛美しましょう。イスラエルを捕囚から救い出し、その傷を癒して下さった恵み深い救いの神は、今も傷ついた人を癒し、飢えた人に食べ物を与え、我々を罪から救い出し、イエスキリストを通して光の道へと導いてくださっています。イエスキリストは罪深い私たちを神のもとに導くために死なれました。キリストが今も私たちと共にいてくださり、私たちを神のもとに導いてくださっていることに感謝し、恵み深い救い主の神を皆で賛美しましょう。神は最初に「光あれ」と言われました。神の言によって万物は創造されました。また、神の言は肉となってわたしたちの間に宿られました。救い主イエスキリストは神の言としてこの世に遣わされました。イエスキリストを通して永遠の命が与えられたという福音こそが我々に与えられた神の言です。私たちは神の言としてこの世に現れたイエスキリストを主であると受け入れ、神の言である聖書に聞き従い、神の言である福音を語り伝えましょう。そして今も我々に言を持って語りかけてくださる神を皆で賛美しましょう。




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