巻頭言
2020年11月


2020年11月1日

「掴み取っては失って」

犬塚 契牧師

善人すぎるな、賢すぎるな、どうして滅びてよかろう。…一つのことをつかむのはよいが、ほかのことからも手を放してはいけない。<コヘレトの言葉7章> あなたは正しすぎてはならない。<伝道者の書7章(新改訳)>

 小学校に貼ってある標語がもし「正しすぎてはならない」だったら、授業参観の時に驚くだろうなぁ。いや、親が驚く前に、子どもたちが先生にその真意を問うだろうか…。旧約聖書は、眉唾モノのその言葉をずっと書き残してきました。続けて、「一つのことをつかむのはよいが ほかのことからも手を放してはいけない」とも記します。これは私も聞いたことがあります。何かを先輩牧師に問えば、最後には「バランスが大切だよ」と諭されて、遠い目で自分の渡ってきた見えない綱を勝手に思い起こしています。それで人生相談は終わり、一番難しい場面で若輩牧師は、置き去りにされます。「スーと来た球をガーンと打つ」(長嶋茂雄)。それができないのに…。何事も極端にすぎると命を縮めるよ。のらりとくらりとソコソコに…そういう薦め?なんだか考えてしまう7章でした。▲今回ばかりは、あきらかに自分が正しいと決めつけた時に限って、深い背景を知って恥じた経験は両手では数えられません。やはり自分の背中で起きていることもわからない者なのです。そうやって、辛うじて開かれた心の耳を澄まして聞こえてくるのは、「正しさは神のものなのだ」という向こうから吹く風の音です。ふと「正しさ」によってがんじがらめなった人を解放する呼びかけです。なるほど、正しさを自分のもとし、それに拘泥する必要などまったくないのだな。それは神様がお持ちなのだな。▲出エジプトのリーダー・モーセを思い出します。40年の厳しき旅の果て。約束の地を見渡しながら、申命記34:4『「わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。」主の僕モーセは、主の命令によってモアブの地で死んだ。』なんという冷たい鬼のような神か…否、荒野の40年、生涯120年のモーセの労苦を知っての「もう十分だよ」との神の招きに聞こえます。同様に39歳志半ばのキング牧師、同じく39歳終戦4週前のボンヘッファー。正しさは、神のもの。「これで自分は安心してじたばたして死ねる」椎名麟三



2020年11月8日

「人の限り」

犬塚 契牧師

この地上には空しいことが起こる。善人でありながら悪人の業の報いを受ける者があり,、悪人でありながら善人の業の報いを受ける者がある。これまた空しいと、わたしは言う。それゆえ、わたしは快楽をたたえる。太陽の下、人間にとって飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない。それは、太陽の下、神が彼に与える人生の日々の労苦に添えられたものなのだ。    <コヘレトの言葉 8章>

 聖書には、いつでもどこでも変わらない普遍的な法則が隠れていて、それは、どの分野においても通用するもので、人生成功のカギなのだと思っていた時期があります。思い起こせば浅薄な理解であったと思いますが、時々、同じような考えで書かれた本も出版されているようですし、あまり責めずに許すことにします。そもそも、コヘレトの言葉の隣に並べられた箴言には、「長く繁栄した生涯」を送るためのルールが多く記されています。曰く、そのためには、学び、思慮深く、決まりに従えばよいのだと。コヘレトの言葉8章は、そんな箴言の調べのま横で、そうは収まり切れない現実社会をそのまま描き出しています。善人が悪人の罰を受け、悪人が善人の報いを奪い取る…やりきれない世界。また、正直者が馬鹿を見る有様とそれでも神を畏れる者が幸いを得るという希望…一筋縄ではいかぬ世の中で、コヘレトは正論とその裏側を行き来しています。複眼で見ないと理解しえない難解さは残りますが、コヘレトの言葉が人気ある理由も分かる気がします。恐らく、私たちの生きているところに近いのです。▲コヘレトは常人では試し得ないことを試し、極めきれないことを極めて一つの結論に行き着きます。「神のすべての業を観察した。まことに、太陽の下に起こるすべてのことを悟ることは、人間にはできない。人間がどんなに労苦し追求しても、悟ることはできず…」。うん、わからないのです。地球の裏側に探しに行かなければ見つけられないものなどないようです。宇宙に出かけて青い球を眺めなければ知り得ないこともないようです。むしろ、「飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない」とは、自暴自棄の快楽の薦めでなく、私たちの日常のささやかの中にこそ、神の計らいは見つけられるのではないかとの促しです。それは主イエスが、神のお取り仕切りを、小さなからし種に例え、野の花に例えたことにつながっているように思うのです。



2020年11月15日

「それでも種を蒔こう」

犬塚 契牧師

あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。     <コヘレトの言葉 11章1-6節>

 現代社会は、いのちを神から奪い取った時代に思えます。神から分捕って、いのちをわがものとした時代に思えます。そして、自分のうちに囲い込んだいのちは、はからずも流れない淀みの中で、におい始めているのかもしれないと思うのです。主イエスは言われました。「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイ6章)▲子どもたちのなぞなぞでこんなのがあります。「自分のものだけど、自分ではあまり使わず、人ばかり使って、それでいて、不快でないものってなんだ」。答えは名前です。しかし、いのちもまた似たようなところあるかもしれません。人のために使うなんて大それたことは言えません。人のためにいのちを捨てるなんてことも、できる自信もありません。それでも、犠牲を払うまででなくとも、少しずつ負荷をかけあうことでしか得られない命の泉というものがやはりあるのではと感じるのです。…少しずつ負荷をかけあう。それは、見えていることの裏側で、それぞれが生かされている場面の厳しさに思いを寄せながら、それでも及ばぬ想像力の限界を知りつつ、なおなおの信仰に立たされていることを祈りの中で確認をしていく作業でしょう。いのちは誰かの手中にあるのではなく、関係の中に流れてあるのだと、ディスタンスが叫ばれてさらに強く思っています。人をなお信仰者足らしめるのは、ひょっとしたら、その個々人の信仰の強さではなく、この人もまた信仰者なのですという隣に置かれた者の働きなのではないかとも思っています。「この人もまた祈り、歌い、賛美する人なのです」という隣りに置かれた者の働きなのではないかと。▲マルコ2章、中風の男が四隅を吊るされ、壊された屋根から主イエスの前に連れてこられました。「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。」好きな聖書個所です。そしてまた創世記9章。箱舟の大事業を成し遂げたノアが、その後、飲みすぎて裸になったシーンがわざわざ登場します。ハムは告げ口し、セムとヤペテは見ないで覆いをかけました。ノアもまた執り成し手が必要なのです。いのちは関係の中に湧くのだと思うのです。



2020年11月22日

「喜びなさい」

犬塚 契牧師

若い者よ、あなたの若い時に楽しめ。あなたの若い日にあなたの心を ばせよ。…ただし、そのすべての事のために、神はあなたをさばかれることを知れ。…塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。なんと空しいことか、とコヘレトは言う。すべては空しい、と。<コヘレトの言葉11章9¬節-12章8節>

 11章9節から“若さ賛歌”が続いています。12章の冒頭個所は、コヘレトの言葉で最も知られているものでしょう。「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。」(口語訳)有名ではありますが、いまいちピンとこない個所でもありました。「そうだろうけど、今、言われても…」健康にしろ、若さにしろ、日常にしろ、失って初めて価値に気づくのが残念な人の性にも思えます。居酒屋で若者相手に青春を語っているコヘレトおじさんの言葉のように読んでいました。「若さはいいぞ。やりたいことやれー」しかし、次の瞬間、さばきの楔も打ちこんでくるから、意外とこのおじさんしたたかだなぁ…。きっと私は、勘違いして読んでいるのでしょう。あまりに現代社会の刷り込みに引きずられています。少なくとも2400年は昔、コヘレトの時代の喜び、楽しみとはいったい何だったのかと思いを馳せます。今のメディアが勧めるブームの獲得、追及とは違うことでしょう。現代がなお礼賛するような奔放も贅沢も豊潤も満腹も独占も意味していないのかも知れません。地球儀を回してみれば、青春がなんのことだか分からない過酷を生きる若者たちが今日も生きています。「若い者よ、あなたの若い時に楽しめ。」どういう意味なのでしょう。▲本当の楽しみや喜びは、有り余る中から湧くのではなさそうです。自己充足的な欲望が満たされた時でもなさそうです。いにしえの人々が夢見たような便利が私たちの周りを囲みながら、なお泣いて暮らしています。神の呼吸と合わないのでしょう。「足るを知る」感謝に、実は楽しみも喜びもあるのだと思います。「主を覚えて、感謝を捧げる」そんな喜びをぜひ若い時にとの薦めなのでしょう。目に見えぬ神が確かにおられ、私たちを今日も有らしめるのです。空が変わり、風が吹き、水が流れ、日は沈みます。創造主がおられ、そこに生きるものは造られたものです。赦しによって生かされたものです。



2020年11月29日

「コヘレト解放の言葉」

犬塚 契牧師

それらよりもなお、わが子よ、心せよ。書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる。すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。 <コヘレトの言葉 12章9-14節>

 コヘレトの言葉の12章。最後の9節以降は、二人の編集者がこの書物に加えた評と註だと言われて、なるほどそう読むと分かりよいのかと…。上記個所からは二人目の編集者の言葉ですが、「それらよりもなお」から始まるようなまとめ方なんて、ありなのかと思ってしまいました。書店に山積みの「コヘレトの言葉」についた帯が「それらよりもなお…書物はいくら記してもきりがない」だとしたら著者は気分を害するだろうか。続けて「学びすぎれば体が疲れる」なんて言われたら、これまで日の下の葛藤と思索がなんだか飛び越された感じがするですが、いかがでしょうか。そして、「神を畏れ、その戒めを守れ」という箴言で締められて、「そりゃそうだけど」コヘレトがその複眼をもって表現する人生の間(あわい)や裏表が心に馴染んで「ムナシイ」けど「アタタカイ」を感じていたのに…。白黒箴言、灰色コヘレトの魅力がなくなりはしないか。しかし、「神を畏れ…」と始まるその言葉ゆえにコヘレトが、ヘブライ語聖書に加えられたと聞いては、もう次の言葉が思いつきません。▲改めて「神を畏れ」(ヤーレー)を黙想しています。新共同訳聖書は「恐れ」でなく「畏れ」と記し、「拝む、敬う、かしこむ、おののく、重んじる」といった意味を表現しています。創世記22章、アブラハムがイサクを捧げようとしたのは、「神を畏れる者」であったからと書かれていました。その畏れの内実をヘブライ書11章は、「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じた」と残しました。ブルブルと震えて神を恐れたゆえのイサクの奉献でなく、人の理解を超え、不条理に思える出来事をなお支配される神への信頼です。神を畏れるとは、この地において見え隠れする圧倒的な空しさの中でなお全幅の信頼を神におくことなのです。やはり、最後の編集者もしっかりとコヘレトの言葉を読んだようです。そして、コヘレトの言葉の最後、「神は、善をも悪をも/一切の業を、隠れたこともすべて/裁きの座に引き出されるであろう。」コヘレト自身も二人の編集者も「動かぬ確かな神」の存在とその「さばき」に任せて書は閉じられます。▲この動かぬはずの神が動き、肉体をもって地を歩まれました。そのさばきは、天やぶれて愛が溢れてなされました。待降節が始まります。クリスマスはもうすぐです。




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