巻頭言
2019年11月


2019年11月3日

「神よ願わくは我を探り、わが心を知り…」

犬塚 契牧師

ダビデの詩…主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。…わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。…どこに行けば/あなたの霊から離れることができよう。…闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち/闇も、光も、変わるところがない。…あなたは、わたしの内臓を造り/母の胎内にわたしを組み立ててくださった。          <詩編139編>

139編は、詩編の冠だそうです。ダビデがこれを詠む背景にバト・シェバ事件(Uサムエル11-12章)があるではないかと…。権力を手中にしたダビデは、美しく見えたバト・シェバと関係を持ち、その後、妊娠のもみ消しを図り、叶わぬと知ると夫を激戦地で戦死させた事件です。旧約聖書の多くのスキャンダルの中でも醜悪さが際立ちます。しかし、預言者ナタンを通してダビデは神に戻ります。その背景を139編に重ねます。▲「わたしを知っておられる」それはおそらく恐怖でした。絶対的権力者ですら、隠せないことがあるのだと彼は知ります。ただ、勘違いはしたくありません。神は監視カメラではありません。神に隠せないのは、決定的瞬間の映像でなく、「まだひと言も語らぬさき」の言葉にならない、自分でも知らぬ影であり、闇です。想像を超えて、人の痛みは深いのです。彼は、逃げます。どこに行けば、離れることができようともがきます。そして、「あなたにとっては闇も暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗闇も光も同じこと」(12節新改訳)と知らされるのです。▲1節から12節までを何度も繰り返して読む必要がありそうです。「闇よ、私をおおえ」という絶望の渇きの中で読むならば、自ずと、いつの日か、ふと…神の心のひだに触れるように思います。自分を正当化するのでもなく、罪の大きさに死を選ぶのでもなく、神には、夜も昼のように明るいという事実がただ救いになると思います。神は不機嫌ではないという事実に、私は顔を上げます。



2019年11月10日

「赦されざる者が晴れ着を」

犬塚 契牧師

主は、主の御使いの前に立つ大祭司ヨシュアと、その右に立って彼を訴えようとしているサタンをわたしに示された。主の御使いはサタンに言った。「サタンよ、主はお前を責められる。エルサレムを選ばれた主はお前を責められる。ここにあるのは火の中から取り出された燃えさしではないか。」ヨシュアは汚れた衣を着て、御使いの前に立っていた。 <ゼカリヤ書3章1-10節>

ゼカリヤが見た幻に、実在でときの大祭司ヨシュアが登場する点で稀有なものだと思います。そのヨシュアがサタンから責められています。天上で繰り広げられる裁判のようです。告発の内容はわかりませんが、少し予想がつきます。バビロン捕囚から解放されて、20年にもなろうとしていますが、神殿建設は進まず、祭司の役割は奪われたままです。サタンによらずとも、十分にみじめな状態に置かれていたのだと思います。大祭司ヨシュアの服は、ボロボロでした。20年前に読んだ本の一文が浮かびます。「今日、多くの司祭や牧師が、人々にほとんど感化を与えることのできない自分に気づき、悩んでいます。彼らは非常に忙しく動いていますが、際立った変化を人々の中に見出すことができません。そこで、自分の努力が実を結んでいないと思ってしまうのです。教会出席者はますます減少し…」(ヘンリーナーウェン「イエスの御名で」)



2019年11月17日

「キリストの勝利の行進」

犬塚 修牧師

「神に感謝します。神はいつも私たちをキリストの勝利の行進に連ならせ、私たちを通じて、至る所にキリストを知るという知識の香りを漂わせて下さいます」(14節) <コリントの信徒への手紙U2章より14節>

パウロは、キリスト者は「キリストの勝利の凱旋式で、行進している捕虜」と記している。捕虜は自分の将来を王に任せている。また自らの生死に関しても、心配したり、思い煩う事がない。キリストは慰めと慈愛に満ちた王だからである。▲パウロはいつも神に感謝する人であった。神と人に感謝のできない人は、自分が高い所に座しているからだ。傲慢になると感謝の思いは生まれない。謙遜な人はどんな事にも感謝する。一方、高ぶりとは、自分を人と比較して、自分が優れていると、錯覚してうぬぼれる事である。その結果、人を「それー価値のないもの」として侮る。M・ブーバーは「我と汝」の著書の中で、「私とそれ」と「私とあなた」という二つの視点を述べている。人間自身を「それ」として捉えると、悲劇を生む結果となる。しかし、相手を「尊いあなた」として敬うならば、互いの間に平和と対話が生まれてくる。神は私たちを平和と愛を実現する者として創造された。しかし、人間的な愛は変わりやすく、また冷めやすい。ブーバーは真実の愛を持ち続けるためには「永遠のあなたである神」に従う信仰が、絶対的に必要と強調している。愛は神からの賜物だからである。▲パウロはこの神と「私とあなた」という祈りの対話に生きた。その心は感謝に溢れていた。「常に、主の勝利の行列の中を凱旋している」と告白する。この勝利は人間的な勝利ではない。一般的な勝利は、力ある者が弱者を暴力的に征服する事である。しかし、主の勝利は全く違う。勝利の王イエスは軍馬にでなく、弱く無能なろばの子に乗って、エルサレムに入城された。神の勝利は、私たちの「欠乏・弱さ・惨めさ・敗北感」の中でこそ、豊かに与えられる。▲どうしても「勝利」と思えない重い現実にあっても、すでに永遠の勝利が待っていると信じよう。手痛い失敗や挫折、過ちを体験しても、主の勝利を仰ごう。自分の罪を心から悔い改め、主に立ち返るならば、主は罪を赦し、ひどい破れも繕い、完全にして下さる。更に、主を信じる者は「キリストの香り」が与えられる。これは、良い行いによらず、主の贈り物である。「私に従い続けるあなたは、そこにいるだけで、すでに良い香りを漂わせている」と、神は優しく語られている。



2019年11月24日

「まな板の上の神」

犬塚 契牧師

…十分の一の献げ物をすべて倉に運び わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと 万軍の主は言われる。 <マラキ3章より>

マラキ書。バビロン捕囚からの期間ブーム、神殿を建て直す建築ブームが終わり、正直者は馬鹿を見て、神を信じる信仰者が損をする世界が横たわっているように思えました。「神など信じて何になるのか」「神は死んだ」として、自分の身は自分で守るほうが賢明です。神への犠牲は、余り物のキズモノとなり、礼拝への誠実さは遺物となりました。自分勝手な離縁と財力ある異邦人との結婚が繰り返されます。生きるに必死の様子があったのでしょう。しかし、吉報、「見よ、わたしは使者を送る」と神は提案をします。ただ、もし使者がこの地に来て、有様を知り、言葉を放つとき、「誰が身を支えうるか…誰が耐えうるか」。そうも書かれています。裁かずにおれない神の聖さがあります。人々の心にはやさぐれた反抗心だけでなく、染み付いたニヒリズムとどうしようもない虚無感も期待外れの神への静かな怒りもまた覆っていました。私たちの胸にも抱くあらゆる感情があったことだろうと思います。人々は神への戻り方を見失ったのです。帰り道が分からなくなったのです。そして、その人々を神はもう一度礼拝に招こうとしています。▲ヨハネ4章、サマリアの女性の箇所が浮かびます。4度の結婚の失敗、5度目の相手を主人と呼ぶことはできません。あまりに傷が深いのです。しかし、灼熱の空の下、渇くように礼拝の場所、帰り道を探しています。彼女は、実存をかけた問いかけを主イエスにします。礼拝の場所を訪ねるのです。ゲルジム山か、エルサレムか。主イエスは答えられます。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。…霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。」霊とは聖霊、まこととは主イエスキリストご自身でしょう。きっと、自前では、もう礼拝できないのです。神の準備された犠牲の想起を聖霊の促しの中でなすだけです。▲「試してみよ」と言われる神は、まな板の上ならぬ、十字架にまであがりました。「あなたは、これで礼拝に戻ってこれるだろうか」。マラキ書、聖書に読むのは、そんな捨て身の神の姿です。そして、飢え渇き以外は知らぬ者が、礼拝者でいられるのです。マラキ書を終え、クリスマスへ。                       




TOP