巻頭言
2018年11月


2018年11月4日

「励まし」

犬塚 契牧師

兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。 <テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 4章13-14節>

「わたしたちの生涯のどこを見ても、そこにはなんらかの悲しみがしみ込んでいます。曇りない純粋な喜びというようなものは存在しないかのようです。人生の最も幸福な瞬間にも、かすかに悲哀の色が感じられます。どんなに満足感に浸っていても、それには限界がいることをすでに気づいています。…しかし、どんな命のかけらも、死がほんの少しでも触れていないものはないということが身に染みて分かってくると、わたしたちの存在の限界を超えた先に眼差しを向けるようになります。《(H.ナーウェン)▲私たちの生活と歴史に染み込んだ死による終焉にあらがって、聖書は語ります。「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。」(1コリント15章)。あらゆる被造物は、朽ちて終わりであったし、死で終わりのはずです。その場面は世界中で再現され、幼い子どももその脱ぎきれぬ哀しみを共有することができます。私たちの知る覆らない常識です。しかし、聖書はイエスキリストの復活を根拠に常識をひっくり返しました。あらゆる死は、命に触れられる接点です。召天者記念礼拝は、思い出の写真を並べる時でなく、主イエスキリストによる新しい命の始まりを覚える時です。


2018年11月11日

「神に近づく」

犬塚 契牧師

主はこう言われる。正義を守り、恵みの業を行え。わたしの救いが実現し/わたしの恵みの業が現れるのは間近い。いかに幸いなことか、このように行う人/それを固く守る人の子は。安息日を守り、それを汚すことのない人/悪事に手をつけないように自戒する人は。主のもとに集って来た異邦人は言うな/主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな/見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。          <イザヤ書56章>

<イザヤ書56章> 新しい時代の局面でイザヤの預言の始まり。エルサレムに戻りさえすれば、回復があると思えたのに、厳しさは変わりませんでした。神殿が立て直すことができれば道が開けると思ったのに、内には上安と外には脅威が依然として存在しています。その中で、イスラエルの民は民族主義的となり排他性を帯びていったようです。捕囚の地で、礼拝を知った異邦人は居場所を失い、差別を経験して嘆いています。バビロンの捕囚地から遠路ついてきた宦官も礼拝に入れず、やはり「枯れ木にすぎない」と絶望をいだいています。▲しかし、「主はこう言われる」のでした。恵みの業が現れるのは間近い。んっ?神は現場を知らないのでしょうか。現実が見えないのでしょうか。その目に有様が映らないのでしょうか。▲500年後、イエスキリストは神殿前で暴利を貪る人たちを追い出しながら叫びました。「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」(マタイ21章)旧約聖書の中で「祈りの家」が出てくるのは56章だけですが、強い印象を主イエスに与え、そのままに受け止めて神殿を開きました。また使徒言行録に登場するエチオピアの宦官もイザヤ書を通して、主イエスキリストと出会います。



2018年11月17日

「よい塩梅で」

犬塚 契牧師

「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。…人は皆、火で塩味を付けられる。 <マルコ9章42-50節>

主イエスは、海に沈められるくらいに重い罪は、窃盗でも放火でもなく殺人でもなく、小さな者の一人をつまずかせる者と言われます。続けて、もし片方の手がつまずかせるなら、切り捨てるようにと。…「小さな者の一人《とは誰なのでしょうか。9章の中で、この個所を読むならば、子どもが火の中、水の中でのたうち回るのを眺めることしかできない父親でしょう。父親は、信じることを迫られ、告白してもなお信仰の弱さを自覚しています。「信じます。信仰のないわたしをお助けください《。また場違いを感じ、数に入れられないことを知りながら、イエスキリストのそばにいることを望んだ子どもであり、弟子たちのようには従えなくとも、イエスの吊をあがめつつ、悪霊を追い出していた人たちでしょうか。9章の登場人物たちです。そして、それらの人たちを冷ややかに見るような空気があったのでしょう。人の目には、それはかすかなものであり、嗅ぎにくいものだったかも知れません。あるいは、もう慣れてしまったか、麻痺してしまったか。しかし、主イエスは厳しく戒められました。▲片方の手がなしたことを誇り、神を忘れるならば、切り捨ててしまいなさい。片方の足が神を亡きものとして離れていくならば、切り捨ててしまいなさい。片方の目が、すべてを見えるというならばえぐりだしてしまいなさい。…小さきものをつまずかせる者、高慢さの中にある者は、神の支配から遠くにあるようです。それは時に致命的と言えるほどに、人を深く蝕んでいます。それぞれに与えられる火(試練、痛み)によって、神に頼り、祈る者へと。



2018年11月25日

「行いのともなう信仰」

犬塚 修牧師

「神が私達の父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に捧げるという行いによったのではありませんか」(21節)ヤコブの手紙2章14-26節

キリスト者の人生は、神が心を込めて造られた珠玉の作品です。それは、地上には二つとない貴重な織物に似ており、また縦糸と横糸で出来ています。縦糸は永遠の神への信仰、横糸はこの世における行いです。▼死んだ信仰とは、行いの伴わない口だけの信仰であり、また生きた信仰とは実践と行いが伴うものです。信仰を単に保持しているだけでは上十分です。信仰を働かせる事です。「宝の持ち腐れ状態《としてはなりません。▼その鮮やかな体現者がアブラハムです。彼は愛する独り子イサクを神に献げました。それは、いかに辛く苦しい決断であった事でしょう。現実の過酷さ、得体の知れない上安感、上条理、人生の疑問の数々が襲ってきたかもしれません。それでも、彼は毅然としてイサクを連れてモリヤ山を登って行きました。▼なぜ、彼はこの厳しい命令に従う事ができたのか。その秘密を解くカギがヘブライ書11:17にあります。「信仰によってアブラハムは、試練を受けた時、イサクを献げました」「献げました」は「完了形」ですので「アブラハムは以前からずっと、子を神に献げる覚悟をしつつ生きた人《だった事になります。神の命令は突然、青天の霹靂のようなものではなく、日々、自分の命よりも大切な存在を、神にお返しするという僕としての生き方を続けていたのです。▼また、神はこの山影に一つの雄羊を用意されました。その雄羊はイエスの予表です。肉親としての悲しみに沈みそうなアブラハムの心の痛みを熟知された神は、隠された所に、絶対的な救いを用意されました。「アドナイ・エレ」(主の山に備えあり)です。それ故に、私達も、この信仰に立って、いかなる時でも「大丈夫だ、主によって」と宣言する事が出来るのです




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