巻頭言
2017年11月


2017年11月5日

「賛美と祈りに変えて」

坂根 彩音姉

ヨブは主に答えて言った。あなたは全能であり/御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。「これは何者か。知識もないのに/神の経綸を隠そうとするとは。」そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた/驚くべき御業をあげつらっておりました。「聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し/自分を退け、悔い改めます。 主はこのようにヨブに語ってから、テマン人エリファズに仰せになった。「わたしはお前とお前の二人の友人に対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ。しかし今、雄牛と雄羊を七頭ずつわたしの僕ヨブのところに引いて行き、自分のためにいけにえをささげれば、わたしの僕ヨブはお前たちのために祈ってくれるであろう。わたしはそれを受け入れる。お前たちはわたしの僕ヨブのようにわたしについて正しく語らなかったのだが、お前たちに罰を与えないことにしよう。」テマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルは行って、主が言われたことを実行した。そして、主はヨブの祈りを受け入れられた。ヨブが友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元の境遇に戻し……ヨブは長寿を保ち、老いて死んだ。 <ヨブ記42章>

ヨブ記は人生の難問をテーマとしています。なぜ苦難があるのか?どうして理不尽なことが起きるのか?ヨブ記は、この難問の中で神様に問いながら生きることの大切さと、問いには必ず答えがあるという希望を教えてくれる書です。ヨブは度重なる試練、周りからの無理解と裁き、神様の沈黙に苦しみます。遂に神様は長い沈黙を破りお答えになりますが、それはヨブの今までの疑問に、一つ一つ答えられるというものではありませんでした。天地創造のみ業を示すことによって、全ての疑問を包括して余りある壮大なお答えでした。苦難や出来事を通して神様を理解しようと混乱していたヨブが、天地創造という素晴らしい神様の御手の業を通して、神様を新しく知った瞬間でした!ヨブは、この全能の神様に知られていることに満ち足りたことでしょう。私たちも、ヨブのように神様を知ることが大切ではないでしょうか。天地を造られ、私たちの髪の毛一本までも知っていてくださる全知全能の神様です。また、新約時代に生きる私たちにはイエス・キリストの十字架による贖いと救いの道を開かれた神様の愛が知らされています。もし、十字架に架けられているイエス様を目の前で見たら、ヨブはきっとこのような質問をするのではないでしょうか。「なぜ、あなたはこんなに苦しまれているのですか?」そして、イエス様は優しくこう答えられると思うのです。「あなたのためです。わたしはあなたを愛している」と。 ●神様は友人たちのために祈りによって執り成すという使命をヨブにお与えになりました。このことは、傷ついたヨブの癒しのためにも、また、三人の友人たちのためにも必要なことだったのではないかと思います。なぜなら、人は、憎しみを抱えたまま生きることはとてもつらいことだからです。ヨブが友人たちのために祈ったとき、神様はヨブを以前にも増して祝福されました。ヨブは元の境遇から二倍の祝福をいただきましたが、子どもたちの数だけは、二倍ではありませんでした。これは、亡くなった子どもたちは、天国で数えられているという復活の希望を指し示しているのではないかと思うのです。私たちの完全な回復は、この人生においてではないかもしれませんが、不当に失ったものを必ず回復し、想像をはるかに超えた祝福を、神様は永遠に生きる中で私たちに与えてくださることを信じていきたいです。このように、私たちの人生に起きる様々な疑問は、イエス様の“十字架の恵み“と“復活の希望“によって答えられていることを信じる時、私たちは苦しみや憂いさえも賛美と祈りに変えることが出来るようにされているのです。


2017年11月12日

「十字架の言葉は神の力」

犬塚 修牧師

十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者にとっては神の力です。(18節) <Tコリントの信徒への手紙1章18-25節>

私たち日本人は「個」が弱いと言われる。人の言葉や評価に左右され、自分を見失う事がある。生きる自信がなくなる原因の一つは「人の言葉」を過度に気にする点にもある。一方、イエス・キリストは、人の心ない誤解や非難にも屈する事なく、御自身の道を貫かれた。それは人に愛される事を求めるのではなく、黙々と人を愛する道であった。そして、主は愛する事を示す「十字架の言葉」を語られた。▼愛される恵みーーー「君は愛されるために生まれた」という心温まるワーシップソングがある。神が私達を創造された目的は、人間を奴隷や道具としてではなく、また利用価値があるからではなく、尊い命として愛される。誰とも比較されない稀有な存在として。私達が、人の期待に応えられない者であっても、神の愛は永遠に変わらない。イエスが十字架にかかり、死なれた事実は、その愛の実証である。ゆえに、神の愛を信じて生きる事である。不完全な私達であっても、主の十字架の言葉を信じる事で、神の赦しと愛を受け、完全に向かって成長していく。▼愛する恵みーーー主は私達を極限まで愛された。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)とある。ゆえに、私達の人生は愛されるだけで十分なのではない。神の愛に応えて、神と人に仕え、愛して生きる為である。これは新しい召しである。愛は奪うものではなく、与えるものである。恵みに与った私達はイエスの足跡を踏みしめ、後に続くのである。それは神と他者のために命を捧げる覚悟で従う生き方となる。当時、コリント教会は様々な問題で悩んでいた。「私はアポロに、私はパウロに」という分派や分裂などがあったと言われている。しかし、パウロはこのような貧しい群れを「コリントにある神の教会」と呼んでいる。神の選びは弱さの中でも発揮されるのである。その弱さの中に、彼は神の絶大な愛と赦しを見た。群れの貧しさの中でこそ、神の豊かさは現れる。私達は自己中心的で、何よりも自分本位の生き方をしてしまう罪深さを持っている。その誘惑の中で、自分を捨て、他者を愛するという無私の生き方をする事は自分の我力では出来ず、ただ、聖霊によって可能な生き方である。この道が人生最高の実りのある祝福をもたらすのである。



2017年11月19日

「夜明けを待つ」

市川 詩音姉

私は主、万物の造り主。自ら天を延べ、独り地を踏み広げた。むなしいしるしを告げる者を混乱させ 占い師を狂わせ智者を退けてその知識を愚かなものとする。僕の言葉を成就させ 使者の計画を実現させる。エルサレムに向かって、人が住み着く、と言いユダの町々に向かって、再建される、と言う。わたしは廃虚を再び興す。 <イザヤ書44章24-26節>

イスラエルの民は、捕囚として連れ去られたバビロンの地で、解放の時を待ち続けました。そして、預言者イザヤを通して、故郷の町が再建されるという知らせを聞くのです。イスラエルの歴史は、「待ち望む民の歴史」でもありました。彼らは、本当に長い間、荒れ野で、異郷の地で、他の帝国の支配の中で寄留の民として歩みながら、神の約束の実現を待ち続けました。どうして彼らはこんなにも長い間、待ち望むことができたのでしょう。▲ヘンリ・ナーウェンは待ち望むことについてこのように言っています。「人が本当に待つことができるのは、待ち望んでいることが、すでに自分たちの中で始まっている場合にのみ可能である」と。待ち望むとは、何もない所を、自分の意思や努力によって信じるということではないというのです。もうすでに種は蒔かれ、自分自身の中で何かが起き始めている、その兆しに気づいた時に人は初めて「待ち望む」ことができるのだと。▲かつて旧約時代の人々は、イスラエルに起こされた歴史の出来事や預言者を通して、この神の約束を聞きました。そして、新約以降の時代を生きる私たちは、やはり、イエス・キリストの出来事に、この神の約束の続きを見ます。そして、私たちは知るのです。「神を待ち望む民の歴史」とは、「人を待ち焦がれる神の歴史」でもあるということを。それは、御自身の元に人を取り戻されようとする、旧約・新約聖書を貫いて書かれている神の姿でした。私たちは、すでに訪れた約束の続きを生かされています。そして、やがて訪れる夜明けを待ち望み生きる者でありたいと思うのです。



2017年11月26日

「真ん中に立ちなさい」

伊藤 聡牧師

イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。(3節) <マルコによる福音書3章1-6節>

イエス様は、会堂に入られると「片手が萎えた人」に向かって「真ん中に立ちなさい。」(マルコ3:3)と語りかけました。イエス様はどうしてこの人に「真ん中に立ちなさい。」と語りかけられたのでしょう。それは彼が会堂の中で目立たない場所にいたからです。不自由さを抱えていた彼はどこか遠慮をして目立たないところにいたのです。しかし彼は「真ん中に立ちなさい。」というイエス様の言葉に押し出されてその会衆をリードするために進み出て行ったのです。その時、癒しが起こり、萎えていた手に力がみなぎったのです。私が牧する篠栗教会では車椅子の礼典執事が司会と証をしています。全盲の青年が毎週礼拝をライブ放映してくれます。篠栗教会は彼らが真ん中に立つ教会なのです。よくよく考えると私たちにはなにか苦手なことがあります。大概なことは卒なくできてもどうしてもできないことがある。私たちのそれぞれがそうした生きづらさを抱えているのです。私たちをご自分の計画の中でそのように創られた神様は、様々な生きづらさを抱えていることをご存知で、それぞれの個性を用いて活躍し、みんなが一緒に誰一人欠けることなく共に生きて行けるようにしてくださるのです。20年ぶりにふじみ教会に戻り、3泊4日南カナンハウスに宿泊させていただきました。契牧師と時間を忘れるように話し、どんな不自由さを抱えていても一緒に生きていける場所としてカナンがつくられたことをお聴きしました。実際ADHDであるために深く傷ついてきた私が泊まらせていただき、スタッフと触れ合う内にその傷が癒されていくことを感じました。カナンは共に生きることを本当に体現していると感じました。私は同じ幻を持っております。聖霊なる神は私たちが弱さや生きづらさを抱えていたとしても、「あなたは真ん中に立ちなさい!」(マルコ3:3)と呼び出されます。聖霊なる神に呼ばれた時には遠慮なく真ん中に進み出て、お仕えしていきましょう。一緒に一つのからだである教会を創り上げてゆきましょう。 




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