巻頭言
2016年11月


2016年11月6日

「生かす神」

草島 豊協力牧師

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」      <ヨハネによる福音書20章19-23節>

 今日のテーマは、「イエスとはどんな方か」。恐らくこの問いは信仰者にとっての永遠のテーマだろう。神学校卒業直後の私は、肩ひじはった信仰理解だった。肩の力が少しずつ抜け、いまは「愚か者の私を、愚か者のままで神は認めて下さる。その愚かさから目を背けないのが信仰」と考えるようになった。しかしそれでよいのかが問われる。  イエスが十字架刑で処刑された後、自分たちにも危害が加えられるのを恐れて閉じこもっていた弟子たちにイエスが現れた。弟子たちの真ん中に現れた。イエスは弟子たちを見捨てるのでなく、またそのままでいいともされず、派遣をされた。引きこもって「家の戸に鍵をかけ」、心の扉にも鍵をかけていた弟子たちを生かすためにイエスは必要なことをした。イエスの行動は理屈に合わないことが多い。愚かな弟子たちを引き連れることから、当時の権力を利用しないことまで。しかし筋が通っているのは、一人の命を愛おしむ姿である。イエスは命を大切にされた。  イエスは、弟子に「聖霊を受けなさい」と呼び掛け、権能を与えた。弟子は、もしかしたらまた傲慢になるかもしれない。しかし、たとえそんな危険があっても、イエスはそうするだろう。神は、ふさわしくない者をふさわしくないままで用いられる。だから私たちが心にとめるのは、自分がふさわしいかどうかではなく、神が自分をどう用いようとされているのかだ。  ヨハネによる福音書で、「聖霊」は「弁護者」と言われる。神は、私たちの時どきに応じて必要なことを教えてくださる。神のメッセージのヒントは実はたくさん散らばっている。祈りを通して、聖書を読むことを通してだけでなく、日々の中でも。ときに辛くて、自分自身の中に閉じこもることがあるかもしれない。しかしそんなとき、その私の真ん中にイエスは立って下さる。そのことを心に留めておきたい。



2016年11月13日

「神、計らう」

犬塚 契牧師

主は、ユダの王ヨヤキムと、エルサレム神殿の祭具の一部を彼の手中に落とされた。ネブカドネツァルはそれらをシンアルに引いて行き、祭具類は自分の神々の宝物倉に納めた。…ダニエルはキュロス王の元年まで仕えた。 <ダニエル書1章>   

 バビロニア帝国の捕囚によって、神の計画のはずだったダビデ王の系譜が途絶え、神の約束の土地が奪われ、神の礼拝の場所が破壊されました。彼らは考えたことでしょう…私たちの神は他の神よりも弱かったのか、神はは私たちを見捨てたのか、神などいなかったのか…。肉体的の捕囚と魂の彷徨が始まりました。紀元前6世紀のことです。しかし、世界史を見るならば、その強大なバビロニア帝国も、やがてに弱体化し、キュロス王のペルシャ帝国を迎えます。そのペルシャも滅び、アレキサンダー大王が掌握し、大王亡き後は分裂となり、シリアの治める時代を迎えます。前2世紀のシリアの王アンティオコス4世の統治の様子がマカバイ記に書かれています。「王は領内の全域に、すべての人々が一つの民族となるために、おのおの自分の慣習を捨てるよう、勅令を発した。…要するに律法を忘れ、掟をすべて変えてしまうということであった。そして王のこの命令に従わない者は死刑に処せられることになった。」(マカバイ記1章)この背景の中にダニエル書は編纂されました。前6世紀のバビロンに苦闘するダニエルの姿を通して一切を計らいの中に置かれる神を、前2世紀の信仰者たちが描きました。「たとえ雲の下を歩いているときでも、太陽について語り続け」ました。バビロンの苦難の中にも確かに神はおられるのだと彼らは抵抗の書を残しました。1章には、恐らく15歳くらいだったダニエルが人質のようにバビロンに連れられ、カルデヤ人であることを強いられ、それでも70年後の捕囚解放まで守りの中にあったことが一筆で書かれています。70年は一人の人生ではなく、3世代にまたぐ物語です。若いダニエルならともかく、すでに大人だった人々は、解放待たずに異国で亡くなったでしょう。それでも抵抗の書は記します。「主は…手中に落とされた」。バビロンもペルシャもギリシャもシリアもそしてローマも…。囚われの日々のすべてを支配されているのは神なのだとダニエル書の最初から聞こえてきます。



2016年11月20日

「神となる神」

犬塚 契牧師

神はモーセに仰せになった。「わたしは主である。…わたしは主である。…わたしは主である。」モーセは、そのとおりイスラエルの人々に語ったが、彼らは厳しい重労働のため意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとはしなかった。    <出エジプト記6章1-13節>  

 前章までを振り返ると…。神に召されるまま、示されるままに、エジプトの奴隷だったイスラエルに神の言葉を伝え、エジプトの王ファラオへ自分たちの礼拝を求めて、モーセは直訴をしました。しかし、その声は聴かれず、道は開かれず、それどころか労役は増し加えられました。モーセは民から責められ、モーセは神に嘆きます。同じ状況を迎えたならば、きっと多くの人が同じ反応をするのでしょう。…モーセは折れました。そのモーセに再び神が語られるシーンが6章です。「わたしは主(ヤーウェ)である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神(エルシャダイ)として現れたが、主(ヤーウェ)というわたしの名を知らせなかった。」かつて、全能の神(エルシャダイ)として先祖アブラハムに現れた神でした。全能(エルシャダイ)とは、全てを可能にする神を表していた言葉なのかは、不明です。しかし、その期待はあったでしょう。いまや全能が届かぬ、状況がモーセを囲っています。神は新しい名を伝えられます。ヤーウェとは「存在」を語根としている言葉でしょう。3章の「わたしはある。わたしはあるといういものだ」との神の自己紹介に由来します。なおなる「存在」、なおなる「在るもの」としての神の姿。それは人にとって、全能を超えるものと成り得る不思議を思います。そして、そのことを心の奥どこかで深く理解し、納得し、小さく震え、まだ歌とならずとも感謝しています。モーセは、そんな神の名を知らされて、再びイスラエルの民に語り始めます。聖書は現実を書いています。「厳しい重労働のため意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとはしなかった。」けれども、それでもなお耳に響く言葉があります。「わたしは主である。…わたしは主である。…わたしは主である。」



2016年11月27日

「魂の救いを受けて」

犬塚 修牧師

イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。 あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、"霊"によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。 <第一ペトロ1章1〜9節>   

「イエス・キリストに従い、またその血を注ぎかけていただくために選ばれたのです」(2節)「注ぎかける」は「少しづつ滴る」の原意である。私たちの人生には、人知れず、小さな心の傷、痛み、失敗、過ちがある。それが年々、積み重なると、自分自身に失望落胆し、生きる希望を失い、絶望感が漂う。それは危険な事である。神はそのような私達の心を熱情を込めて必死で癒そうとされる。一滴一滴の血(命)を注ぎかける事によって。神の恵みは、突然降ってくるスコールのように、浴びせられるのではなく、少しづつ、与えられる。自分の隠された傷をそのままにしておくと、そこは化膿し、いつしか命取りとなる。ゆえに、私達も自分の罪や重荷をイエス様の所に持っていかねばならない。神はそこに十字架の血を霊薬のようにして、日々、与え続けられる。私達の人生の日々は、この神の恵みの滴りによって導かれてきた。▼「それはあなた方が、信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」(9節) 神の愛は無限であり、どんな罪もキリスト信仰によって、赦して下さる。たとえ死のような恐ろしい魔物が迫っても、神はその得体のしれない恐怖からも救い出される。又、火のような試練が襲っても、神は完全に守られる。当時の金は非常に高価なものであり、精製のためには名匠のわざが必要とされた。彼は溶鉱炉のすぐそばにいて、金塊を取り出す絶妙な瞬間をジッと待っている。その有様は、主を信じる私たちの人生と似ている。神は私たちの魂に精魂を傾けて関わり、必ず、辛い苦しみから解放される。▼ゆえに、私たちは「今、ここ」を感謝せずにおれない。主のご配慮とご計画に一瞬の狂いもないからだ。▼「あなたがたこの世では、悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。あなた方はすでに世に勝っている。」(ヨハネ16:33)とある。この主のみ言葉のように、私たちは様々な難問題に悩むかもしれないが、魂がいつまでも健やかで、愛の心生きる事ができる。イエス・キリストを心に受け入れ、信じて歩むならば、それは可能となる。ヨーロッパ・アマツバメという小鳥は、10か月間、一度も着地しないで、大空を飛び続ける。私たちも彼らに学びたい。どんな嵐があろうとも、空高い所は晴天である。主イエスのそば近くにいる事が私たちの勝利、平安の秘訣である。この世の欲望、思い煩い、苦しみからはるか高く、天に魂を置いて、信仰の大空を飛び回りたいものである。




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