巻頭言
2015年11月


2015年11月1日

「死の死」

犬塚 契牧師

 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。 <コリントの信徒への手紙T15章50-58節>

 すでに召された方々を覚えての召天者記念礼拝。午後は富士霊園での墓前礼拝。教会の大切にしている一日。▲死した後、誰も覚える人のいない悲しみを覚えるとしたら、言葉にならぬ深いものだと思います。十字架上のイエスキリストの横に磔にされた強盗が、最後に願うシーンを思います。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ23章)。許しを願うでもなく、救いを乞うでもなく、「思い出して」との言葉が、犯罪人として死ぬ彼の願える最大限でした。しかし、彼は神から忘れられた者とはなりませんでした。イエスは応えます。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。召天者を覚えると共に人を覚える神を知る日です。▲死のとげは罪だといいます。死は、罪を武器とし、その悲惨さを見つめさせます。死へといざないます。罪の行く末を、逃げ場のない形で示します。死の持っているとげは、小さく可愛く指を刺すようものでなく、強力です。死のとげなる罪によって、自分の心の内を正直に見るならば、首根っこつかまれ、どんなに威勢のよいことを語っていたとしても、死なねばならない致命的なダメージを受けています。イエスキリストの横に立った、犯罪人と重なる者が生きています。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです(ロマ書5:12)。しかし、もう一度、コリントの信徒の手紙を確認します。死すべきものが命にのみこまれる。朽ちるべきものが朽ちないものを着る。死ぬべきものが死なないものを着る。神は死を勝利させたままで済ましませんでした。神が復活させたイエスキリストを通して、私たちは知るのです。死のとげ、死の武器、罪は私たちを殺すことはできないと。どういう形か、やがて復活の体をいただき、生きる者です。死は死んだのです。



2015年11月8日

「帰り道」

犬塚 契牧師

 「イスラエルの神、主はこう言われる。このところからカルデア人の国へ送ったユダの捕囚の民を、わたしはこの良いいちじくのように見なして、恵みを与えよう。彼らに目を留めて恵みを与え、この地に連れ戻す。彼らを建てて、倒さず、植えて、抜くことはない。そしてわたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは真心をもってわたしのもとへ帰って来る。  <エレミヤ書24章>

 BC597年、ユダの王エコンヤをはじめ国の技術者たちをネブカドネザル王はバビロンへ捕囚として連れ去っていきました。バビロン捕囚のはじまりです。エルサレムに残された人々は、自分たちの安全を当然とし、連れ去られた人々を自業自得と考えていたようです。神殿のそばにある自分たちは、まだ大丈夫だいう「信仰」のかたちをした傲慢がありました。そんな最中にエレミヤは幻をみます。それは、悪いいちじくと良いいちじくが神殿の前に置かれたものでした。そして、連れ去られた人たちこそが良いいちじくであり、残された人たちは悪いいちじくというものでした。皆が考えていたことの反対に神の心がありました。▲「良い」とか「悪い」とかの字だけを追うならば、神の心の真を捉え損なうように思います。褒められば比較に繋がり、叱られれば卑屈へ向かう不自由さを人は持っています。二者択一にして自分はどっちのいちじくだろうかとの判断基準が示されたわけでもないのでしょう。神の言葉の代弁者である預言者エレミヤは、なお「悪いいちじく」の中でさらに働きを続けます。もう食べられないと言われる見切品のいちじくの中で、彼の働きが残されていました。かつて読んだエピソードを思い出します。ジョンウェスレーの母スザンナは、子だくさんでしたが、ある時に「どの子がお気に入りか」と問われたときに、「病気を患って苦しんでいる子がいる時はその子が一番大事、家を離れて遠くに暮らしている子がいればその子が愛おしい」と答えたそうです。



2015年11月15日

「福音に共にあずかる者」

犬塚 修協力牧師

 「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。」   <Tコリント書9:19〜27>

 パウロにあっては伝道が一生を通じて、大きな歓喜と平安となった。これ以外に生きがいが感じられない程、伝道する事に命を燃やした。幾人かを救い出すために全力を尽くす人であった。滅びつつある魂を、主に導くためには、「私はどんな事でもする」と宣言している。もし、その人が律法に固執しているならば、彼も又、律法を大事にした。それは彼を救うためである。もし、別の人が精神的、或いは肉体的に弱かったならば、パウロも同じ状態になろうとした。何とかして、その人に永遠の命を獲得してもらいたかったからである。私達は「弱い人」を励ましがちである。「がんばれ、そんな弱気でどうする!」という叱咤激励してしまう時があるが、それでは本当の慰めにはならず、むしろ、責めたててしまう結果にもなる。確かに、人の悲しみの視点に立つ事は難しい。救いのためには、まず独裁的な自己絶対化や自己中心性を捨てて、相手の痛みや苦しみに寄り沿う事が肝要である。▲主イエスはそのようなお方であった。ヨハネ21:15〜19に、主を裏切ったペトロが登場する。主は彼に三度も「私を愛するか」と質問された。その理由は、彼の心の傷を癒すためであった。最初の二つの「愛する」は「アガパオ」であり、それは完全な無条件の愛の意味である。だが、ペトロは己れの弱さと失敗を体験していたので「私はフィレオ―の愛でならば愛します」と答えている。これは、友情、友愛である。彼は正直者であり「あなたを十分 には愛せません」と告白した。主は三度目に「そのフィレオーの愛で愛するか」と問われた。それは胸打つ言葉である。確かに、私達の愛は限界があって不完全な愛であっても、私達を無条件に受け入れて下さっている。その事実を知ると、私達は救われたという喜びを持つ事ができる。▲次に、主が「私の羊を飼いなさい」(17節)と言われた。これは「彼はお前の羊ではない」という意味である。私達にとって、どうしても気にかかって仕方のない人がいたとして、その重く、深刻な問題等について思い煩うと、悲嘆に暮れてしまう。それは「その人はこの私の羊だ」と思い込み、重荷を背負いこんでいるからではなかろうか。だが、主が「私の羊だ」と語られる。その事を信じると、耐え難い重荷も軽くなり、あらゆる事を主に委ねて、自由自在に生きる勇気が湧いてくる。



2015年11月22日

「なんて言えばいいのだろう」

犬塚 契牧師

 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」 <マルコによる福音書4章30〜34節>

 イエス様が、この例話をされた時、人々の心に最初に浮かんだのは意外性だったと思います。旧約聖書に親しんだ彼らにとって、「…空の鳥を宿す」と聞いて浮かぶのは大きな巨木、立派な杉と決まっていました。それもレバノン杉と言われる丈夫で、美しく、香りのよい木です。エゼキエル書17章にこうありました。「主なる神はこう言われる。わたしは高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し植える。イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる。」バビロン捕囚の中にあるイスラエルに与えられた希望です。やがてメシアが神の国をもたらすとき、レバノン杉のような力強さはイスラエルのものとなり、自分たちが世界を支配するようになると民は期待していました。空の鳥が巣くう木、神の力があらわる場、を想像するにレバノン杉が浮かびました。一本で森と思える壮大な杉と、さらにそれが広がった森の圧倒されるような荘厳さというものがあります。しかし、イエス様が例えとして用いたのは、からし種でした。神の国を伝えるに、私たちが日々を過ごす生活の場の庭を示しました。台所の裏や仕事場へ向かう路地を示しました。黄色の花をつけて、からし種が咲いています。私たちが日々を生きている、たわいなく思える光景を離れては、神の支配、神さまのおとりしきりなどないのだよと。神様の信頼にただ生きるイエス様が眺めた広がりがあります。この広がりを一体「なんと言えばいいのだろう」との感動を知らされたいと願います。



2015年11月29日

「アブラハムにさせなかったことを」

犬塚 契牧師

 これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると… <創世記22章>

 イサクの誕生によって、アブラハムの生涯に欠けていたものが、いよいよ満たされました。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。」(12章)の呼びかけから始まった旅は、終焉に近づいていました。その中での22章の出来事はとても残酷に思えます。神はアブラハムにひとり子イサクをささげるように命じられました。親として抗議すべき場面だと思います。子として反抗すべき場面です。しかし、出来事は粛々と進んでいきます。▲この結末を知っている者は、解釈を考えます。異教では、捧げられていた長子をヤーウェの神は本当には求めたまわない神なのだ、と。それでも神が子を捧げるように命じられた衝撃を薄めるには及びません。アブラハムにはどうして神がそれを求められるのかが分かっていたのだと思えます。彼にしか知り得ないその理由をもって…。私たちは造られた者として、神にしか弾けぬ心の弦のようなものがあって、ハタから見れば理不尽で不可解で、不条理で残酷なところも神とその人自身の歴史の中では理解し得ぬことではなく、むしろその所こそが神が神としておられる確認の場であることもあるでしょう。22章は、何らかの教訓を学ぶテキストではないのです。磨かれつくされたこの言葉少なの物語の中で、アブラハムが立たせられた場面を思う時、この話を読むすべての人たちは、どこまでもギャラリーの一人に過ぎず、沈黙以外がふさわしいとは思えません。それでも沈黙の中で、わたしたちの日常も「絶望か」「神の主権か」の中にあることが気づかされます。脅かされるこの身は、神の全存在なる呼びかけによって、どうにか身を拓き、応答へ傾き、ようやく生きるを得るのです。…「アブラハムよ」…「はい」。神の全存在なる呼びかけは、その者に関わろうとする愛です。神の受肉に神のことばの集約をみます。いよいよ、クリスマスへ向かいます。




TOP