巻頭言
2014年11月


2014年11月2日

「弱さの中でキリストに出会う」

犬塚 契牧師

 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。                <詩編23編1〜4節> 

 「主は羊飼い」ならば、「わたし」は羊です。羊は、極度の近眼であり、方向音痴で迷いやすく、無防備に襲われてしまうような弱さをもちながら、とても頑固だといいます。詩編23編の記者は、そのような者と自分を理解したのでしょう。背景であるパレスチナの荒野には、青々と茂った牧草が広がっているわけではありません。時々の羊飼いの導きでようやく青草と水に辿りつくことができるのでした。のどが渇くことがあり、お腹がすくこともあるでしょうが、それらは必ず守られてきました。今や「主」を、彼は信頼しています。それは今にも転げそうな死の陰がチラつく細い谷で、起ってはいけないような災いにあってもです。できれば、そこを通らないで済むような保障を求めての歌ではありません。ギリギリの死の陰の谷で襲った災いならば、すでに落ちているのではないかとも思えます。しかし、主はそれでも共にいてくださると語ります。▲メメントモリという言葉をよく聞くので、時々死とはどんな感じかを思いますが、想像に及びません。性格上、死ぬときは、受容できず、うんと心細く感じて子ども帰りするかも知れません。見舞客を離さないかも知れません。周りにアタル可能性もあります。ひとり、野で倒れるかも知れません。突然に石に当たったり、津波に飲まれたり、蜂に刺されたりもあり得るでしょう。人の手が届かないところです。しかし、主は共におられると告白します。神様のほうからの語りかけでなく、人がこのように神にこう告白するのは、聖書中、珍しいことです。神にべったりとならなければ、死ぬことはうんと難しいように思えます。それに添われる神です。人の優劣、強弱、有様に関係なく、神に覚えられない死などひとつもないのです。



2014年11月9日

「手をとって」

犬塚 契牧師

 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ 彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく 暗くなってゆく灯心を消すことなく 裁きを導き出して、確かなものとする。 イザヤ書42章1-4節 

 教会学校の聖書教育で開かれた聖書箇所です。共に中高科で学ぶリーダーは、クラスで聖書を輪読したあとに「今日は、お話することがないんです」と言われました。クラスの準備がなかったわけではありません。むしろ、それはこの42章を神様からの語りかけとして、身をもって読んだ証しにも思えました。バビロン捕囚の絶望的な苦難の中にある人々へ向けて、「慰めよ、わたしの民を慰めよ」(40章)という新しいイザヤ書の場面が始まります。42章もその続きです。この神からの語りかけは、余計な注釈や批評を読み聞きかじりする前に、語られるままに読みたいと願います。本当は、礼拝者みんなで声を合わせ心ひとつにして読んで、宣教の時間を終わりにしたいくらいです。いつもより随分短い礼拝になるでしょうか。そんなささやかな夢があります。▲イザヤ書はこれから「主の僕」の預言の4つが続きますが、42章は最初だと言われます。(42:1-9、49:1-12、50:4-11、52:13-53:12)この僕とは誰でしょうか。預言者たちが預かった言葉には、当時すぐに起こることと共にやがて成就する計画が入り混じって語られているようです。どこまで預言者たち自身が意識し、理解できたかは分かりません。42章はイザヤ自身の召しの確認のようであり、他国の施政者への待望とも聞こえ、まだ見ぬ解放者を想像させ、そして、新約以後の教会に生きる私たちとっては、イエスキリストのことであります。教会はそのように読んできました。そして、またそれはこの地を神の僕、神の子として生きる私たち自身のこととして読みたいと思うのです。傷ついた葦を折る必要はなく、暗くなってゆく灯心を消すことのない者です。



2014年11月16日

「ほっと、安息」

犬塚 契牧師

 そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」。 マルコによる福音書2章27-28節

 品揃え豊かなスーパーも24時間オープンのコンビニもなかった時代、人々は旅の道中に麦を摘むことができました。さすがに鎌を使った刈取りはできませんでしたが、手で摘んで食べることは許されていました。マルコの2章、イエスキリストの弟子たちが安息日に麦の穂を摘んでいるとファリサイ派の人々からクレームを受けました。「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」。無銭飲食の現行犯ではなく、安息日に手で麦を揉んだ(脱穀)ことが、安息の日に仕事をしたと判断されたのです。イエスキリストの切り返し方は、大胆でした。あなたたちが旧約聖書の律法を広げ、そう来るならば、”大御所”ダビデの行いを知らないのかと言われたのです。それは、サムエル記上12章、ダビデとその従者たちが祭司しか食べてはならないパンを食べるシーンです。それは、あきらかに律法違反でしたが、神はダビデを責めていないと。そして、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」とイエスは言うのです。安息日と割礼は彼らのアイデンティティーそのものでした。びっくりしたと思います。▲「休みなさい」という神の安息のリズムを、人は「休まなければならない」という仕事に変えました。その律法は金科玉条となり、生身の人を超え、安息が人を縛るものとなりました。7日目、7年目、14年目…49年目、そしてヨベルの年と呼ばれた50年目。彼らは畑を植えつけをやめ、人を休ませ、奴隷を解放し、50年目には土地も戻しました。神の安息のリズムに従うとは、本当に休みの中で養われるのかという恐れが生じることでもありました。手放すことでした。安息とは、体をちょっと休めて仕事に備えることではなく、まさに神を信頼することに他なりませんでした。そして、さらに、「人の子は…」と続きます。それは、イエスキリストが自分の紹介に好んで使った称号であり、メシア性の宣言があります。繰り返し読みたいと思います。



2014年11月23日

「ほっと、安息」

犬塚 修牧師

 「わたしの平和を与える。わたしはこれらを世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな、おびえるな。」(27節)  ヨハネ14章25〜31節

 「平和」は「戦争のない状態・平穏・一致・安全・健康、霊的平安」という意味がある。この平和は聖霊によって与えられる。聖霊は私達の真実な弁護者・最高の教師である。聖霊が私達にすべてを教えられる事を信じるならば、私達の心に安らぎを得る事ができる。また、自分の無力感や強迫観念からも解放される。聖霊がすべてを補って下さるからである。私達は自分の失敗を深刻にとらえ過ぎたり、過度の責任感に苦しみ、悲観主義者となって倒れてはならない。もし聖霊に一切を思い切ってゆだねるならば、自らの将来は力強いものとなり、以前のようにおびえたり、劣等感に陥ったりする事はなくなる。また聖霊のみ業の直後に、「キリストの平和」について記されている。一方「世の平和」は不安定なものであり、状況の変化や、結果、成績の良し悪しによって、平和は失われ、憎しみや不安に変化してしまう。それは不完全で、移ろいやすいものである。しかし「キリストの平和」は、どんな 事が起こっても揺り動かされる事はない。この平和は天からの賜物である。コロサイ書3:1に「上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右の座に着いておられる」とある。ゆえに、この平和は天から与えられる。もし私達の心が天にあるならば、心は平和に支配されるであろう。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る」(イザヤ40:31)とある。キリスト者は主の翼に乗り、そこからあらゆるものを眺望する事が出来る。「天国は本当にある」という実話に基づく一冊の本の中に、3歳の男の子の奇跡が記されている。彼の父親はわが子の悲劇に遭遇して、苦悶したが、主によって奇跡的に一命を取り留めた。その時、父親はある真実を「知ってしまった」と非常に鮮明な表現で書いている。それは、親として 何もできない状況の中で、自分は全く絶望していたが、わが子は天にいます主イエスの膝に抱かれている事を知ったという意味である。この出来事によって、彼は本当の平和を心に宿す事ができたとして主を心から賛美している。自分の力では何もできなくても、その難問題を受け止めて解決に導かれるのは、主であり、その事を知らされた者となって、信仰の道を突き進みたいものである。



2014年11月30日

「大切なハガルへ」

犬塚 契牧師

 「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」                        創世記16章

 アブラハムの妻サライは、夫に与えられた神からの祝福やビジョンを自分のこととしたのだと思います。主人の見た幻を信じ、星の数ほど子孫が増えることを一緒に期待しました。しかし、カナンの地に移って10年が経ち、いまだ胎は開かれません。神の祝福プランに、自分は入っていないように思えました。「戦力外通告」…それは、とても残念で、悲しいことです。しかし、サライは勇気ある女性でした。自分の一番の弱さを凛として受け止め、「そうかそれならば」と女奴隷ハガルの胎で子をもうけるようにアブラハムに勧めます。えっ!と、驚きますが、奴隷の胎から生まれた子を女主人の子とするという、その当時には理解された方法でした。しかし、当時でも今でもその心は複雑です。エジプトからの奴隷だったハガルは、すぐに子を宿すようになります。すると途端に自分が偉くなったと感じました。ハガルにはハガルの辿ってきた悲しみがあったのでしょう。それが謙虚さへ繋がることはいつも稀で、女主人サライの気持ちを察せずに、傲慢になりました。するとサライはもうたまらずにアブラハムを責め、アブラハムは「好きなようにするがよい」となりました。サライは好きにして、ハガルをいじめ、彼女はお腹の子と逃げ出しました。▲やがて「信仰の父」と呼ばれるアブラハムの周辺の話です。実によく散らかっています。それぞれの関係も想いも方向性もです。繰り返し読みながら「あぁ、なんだかなぁ、どうしてかなぁ、だめだなぁ」と嘆息します。▲16章で主の御使いは、逃げたハガルに現れます。上記の箇所。御使いはハガルがどこから来たかは、既に知っています。「サライの女奴隷ハガルよ」と呼びかけていますから。ただ、その呼びかけはあまりにも酷に思えます。「ハガルよ」の呼びかけで十分なのではないかと…。それでも、ハガルには気付かされたことあったようです。どんな出発点や辿った過程でも、その歩みの全工程において、たとえ自分の受け入れがたいことを多分に含んだとしても、それの一切を導いてこられたのは、神ご自身なのだと。本流ならずも、傍流にこそ流れる恵みを思います。





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