巻頭言
2013年11月


2013年11月3日

「失われていたイエス様の親友」

文 廷翼 神学生

 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」  ルカによる福音書19章1−10節

 ザアカイは純粋な人でした。 ある日、突然イエス様が道を離れて彼の登っている木の下に来られ、「今日は、ぜひあなたお家に泊まりたい」と言われました。彼にとっては初対面のイエス様からの想像以外の提案でしたが、喜んで迎え入れました。彼は世の中に自分の友達は一人もいないと思っていました。しかし、イエス様という親友がいたのです。私たち全てはイエス様という親友をもっているのです。私たちがイエス様を知らないとしてもイエス様は私たちを知っています。私たちの必要、私たちの寂しさ、苦しみ悲しみも…。 話は少し変わりますが、多くのクリスチャンが「富んでいるものが天国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっと優しい」(マタイ19;24)という御言葉などから、イエス様は貧しい人だけ声をかけて招いていて、お金持ちは天国に入れないと誤解している方があるようですが、決してそうではありません。私も恥ずかしいですが現在小さい会社を営みながら宣教師としてホームレス伝道を上野公園など直接行っています。炊き出しの集会ではなく御言葉の勉強を中心とした小グループの伝道集会ですが、相手がホームレスさんたちですのでどうしても食べ物や衣服など、生活必須品が必要になります。しかし、長い不景気の影響で自分自身もあまり余裕がなく、いつも十分な提供が出来ないときには自分もロックフェラーのようにたくさん稼いでたくさん援助が出来ればいいのにと惜しむことがあります。神の国に入るかどうかは金持ちか貧しい人かの問題ではなく、どのように稼いでどのように使うかの問題ではありませんか。イエス様は、彼に言われました。「今日、救いがこの家に訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」19:9〜10ザアカイは失われた人でした。言わばこの世の「脱落者」だったのです。しかし、「そういう人のためにこそ私は来た」とイエス様はおっしゃるのです。アブラハムの約束の成就です。永遠の救いがここに来ました。イエス様は彼の決意を喜ばれ、悔い改めの捧げものを受け取られました。イエス様はいつも私たちのすぐそばにいて、重荷も軽くしてくれる本当に優しいお方です。あなたは今どの木に登っているのでしょうか。2000年前にザアカイの家にお泊りになったイエス様は今私たちの家にも泊まりたがっています。早く木から降りて、彼のようにイエス様を喜んで迎えにいきませんか。どんな状況にあってもイエス様は私たちを許し、私たちを愛する私たちの友なのです。イエス様は今日も私たちにおっしゃるのです、「急いで降りてきなさい。今日、あなたの家に、あなたの心に泊まることにしてあるから。私はあなたの親友だから。」と。



2013年11月10日

「神の同行」

犬塚 契

 主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。 ヨブ記1章12節

 幼い時、「信じているか?」とに問われるとその度に、恐れに近いものが心にぽっと生まれた。信じるとはなんだろう、それはどれほどのことを指すのだろうと思った。勉強ならばテストで習熟度が分かる。信仰はどこを基準にして、それにYESと答えていいのかが分からなかった。私は信じているのだろうか、いないのだろうか。▲神を信じるとは、理解して、分かって、テストにクリアして受け入れていくのは違い、神に尋ねながら、考えながら、なぜなのだろうと問いながら、信仰者と神との間に見えてくるもの、出来上がってくるもの、旅路をいうのだと思う。▲ヨブ記は、聖書の歴史の中でもずいぶん古い時代に書かれたといわれる。世界で一番無垢で正しい者が、世界で一番苦しむという不公平、理不尽・・・。「わたし自身、これを思うと慄然(りつぜん)とし、身震いが止まらない。なぜ、神に逆らう者が生き永らえ・・・」(ヨブ記21章)ほんの少しの理不尽も私たちの一日や一週間を台無しにするのに十分なのに、ヨブは一夜にしてすべての財産と愛する子どもたちを失った。正しい者は、相応に祝福されてしかるべきではないのか。神はどこにおられるのか。最も古い書は、変わりなきテーマを描く。▲神とサタンとの会話から、ヨブ記は始まる。ヨブは天上でのやりとりを知らない。知れば、多少の慰めになっただろうか。人はその理由なき時も神を愛するのか、否か。神VSサタンの賭けが始まった。ヨブの人生は、その実験の材料にされたようにも思える。しかし、12節の「それでは、彼のものを一切、お前のいいように・・・」とはどういうことか。なぜこんな許可書が発行されたのか。この後にヨブに起きた出来事を思うと、あまりに重い「それでは・・・」でないのか。ヨブ記から結論めいたことを語るにためらいがある。それでも信じたいことがある。神VSサタンで始まったはずのヨブ記は2章以降サタンは二度と登場しない。結局、この書は、神とヨブの話であり、信仰の過程であり、旅路の記録である。「それでは・・・」で問われたのは、ヨブの信仰のみならず、ヨブを支え続ける神の恵みなのだ。神の恵みは果たして、最後までヨブを支え続けることができるのか。この舞台に上がったのは、神ご自身である。ヨブ記は祝福で終わる。



2013年11月17日

「エサウとの再会」

犬塚 契

 ヤコブはそれから、先頭に進み出て、兄のもとに着くまでに七度地にひれ伏した。エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた。 創世記33章3〜4節

 ヤコブとエサウの20年来の再会と和解の33章。祝福を奪ったまま逃げた弟を兄は赦すのだろうか、ヤコブを迎えたエサウ陣営の400人は、果たして敵なのか味方なのか、これは戦いなのか歓迎なのか・・・。ヤコブは先にペヌエルでの神との格闘にて、「ヤコブ(押しのける者)です」と答える以外にない自分をむき出しにされ、それでもなお「祝福してくださるまで離しません」と神に求めていた。▲仮面ライダーも5色のレンジャーもテレビで見たヒーローは変身してから強くなるのが常だった。変身後に弱くなるヒーローを見たことがない。前章32章で、ヤコブは名前を“イスラエル”と変えられるような経験の後は、足を引きずって生きることになった。押しのける者は、押しのけられる者へと弱くなった。彼は先頭を歩き、兄の姿を見つけると着くまでに七度地にひれ伏した。かつて父イサクは、「・・・多くの民がお前に仕え、多くの国民がお前にひれ伏す。お前は兄弟たちの主人となり、母の子らもお前にひれ伏す」と祝福したはずだった。今や父イサクの祝福した様子とは違うかたちが広がっていた。ヤコブが20年で受けた祝福とは何なのだろう。無一文の逃走から膨大に増えた家畜の群れか、共なる帰郷を決断した家族か・・・。いまや奪った祝福を丁寧にエサウに返すかのに、足の不自由なヤコブが七度地に伏した。なんだか後ろから眺める人々には、それは滑稽にも惨めにも見えたことだろう。しかし、ここに至るまでの押しのける者への神の取り扱いこそが神の祝福だったように思う。前に読んだ、「ほんの少しへりくだるために、人はなんと多くの蔑みを経験することだろう」の言葉を思い出す。ヤコブはエサウに出会って口を開いた。「兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます。」知らずに赦されていたのだから、嬉しさもあったし、ほっとしたこともあると思う。それでも、社交辞令ではなかった。ヤコブに対する神の取り扱いと格闘は、エサウの顔を前にして、なお神の御手を覚えるに十分だった。「神の御顔のように見えます」



2013年11月24日

「ふじみキリスト教会 福祉デーから学んだこと」

犬塚 契

 

 11月17日はふじみキリスト教会福祉デーを設けて、東京基督教大学の井上貴詞先生をお招きしました。開かれた聖書箇所は、創世記1章28節「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」とマタイ28章19-20節「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。…」でした。文化命令と大宣教命令の統一性が語られ、また何よりもキリストの弟子として生きることこそがクリスチャンの使命あることを教えてくださいました。例えとして、パウロの歩みの紹介がありました。パウロの伝道旅行において、世界宣教を目標にしていたパウロが、目的のローマを目の前にして、はるかなる遠路を戻り、エルサレム教会に“福祉献金”を届けました。ルートを正反対にするように見える道も彼にとってはキリストに従う一つの道だったと教えられました。キリストの弟子であることに人を映す必要はなく、ただキリストに従う。そのことなんだなぁと。▲午後のセミナーも有意義なものでした。現代の日本では、急速なテクノロジーの発展と物質的繁栄によって、あまりに便利で簡単に様々なことができるようになりましたが、一方、それが「悲哀排除症候群」(小此木啓吾)と呼ばれるような、悲しむこと、無力感を覚えること、苦悩を与えるものを排除しようとする傾向を生むことに繋がっているのではないかと話されました。続けてV・E・フランクルの言葉も紹介されてました。「生きることそれ自体に意味があるだけでなく、苦悩することにも意味が、しかも絶対的な意味があります。…私たちが時間の中で創造したり、体験したり、苦悩したりしていることは、同時に永遠に向かって創造し、体験し、苦悩しているのです。」▲井上先生ご自身が教会の介護サービスの運営を担われる中で、介護に向き合うことは、精神的、肉体的、金銭的にも本当に大変なことだと痛感されておられます。しかし、その中でも気付かされていることとして、苦難を通して、人間がもつ弱さや尊さに気付きが生まれたり、生きること、死ぬことを改めて問うたり、自分や親に新たに向き合うことによって今までとは違うストーリーもまた生まれる可能性があるあることを教えてくださいました。この与えられた歩みの中で、クリスチャンは、「それでも人生にイエスと言」えるでしょうかと。





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