巻頭言
2012年11月


2012年11月04日

「多くの証人」

犬塚 契

  こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。 <ヘブライ人への手紙12章1-2節>

 「こういうわけで」が12章の冒頭にあるから前章11章を読んでみると、「信仰によって」という言葉の列記。旧約聖書の登場人物が「信仰によって」何を為したかが書かれている。聖書の中で“最も美しい列記”なんて言われるものだから、そのつもりでしばらく読んでみる。「信仰によって、ノアは…恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り…。信仰によって、アブラハムは、…行き先も知らずに出発し…。信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。」▲“美しい列記”を読んで、頭に浮かんだ言葉は、“めちゃくちゃ”だった。全財産を投げ打っての箱舟の建築、行き先決まらぬままの引越し、独り子イサクの奉献…。当初の予定と違う、まとまりきらない、人の分を超えた歩みを思った。信仰者と言われる人達の、ことあるごとに震えた膝と祈りのたびに広げた両手を思った。一体、どうやってその渦中を生き、どうやって乗り切ったのだろう。▲「多くの証人」に共通していることは、信仰によって、神以外には、収拾のつかぬ道を行ったのだということであり、彼ら自身では繕い切れぬ歩みだった。▲迫害下のクリスチャンたちに向けられたヘブライ書。彼らの現場での混乱と収まらぬ胸中は想像を超える。きっと、分を超えていただろうと思う。しかし、旧約聖書の多くの証人たちと、そして何よりもイエスキリストがおられる。主イエスは、喜びの道があったのに、あえて十字架の死を耐え忍ばれた。今や神の右に座しておられる。地において恥と十字架へのへりくだりを歩まれた主は、私たちの混乱もめちゃくちゃも神への祈りと賛美へと変える。



2012年11月11日

「途上での確認」

犬塚 契

 さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。・・・バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。ガラテヤ2章11-13節

 ケファとはペトロのこと。彼が彩色豊かであったアンティオキア教会に来た時、当初は、食事や礼拝を異邦人と一緒にしていた。異邦人も信仰によって救いを得ることができるとは、エルサレムでも確認されたことだった。しかし、割礼などのユダヤ文化を含めた律法の遵守をなお薦めるユダヤ人グループの存在が近くにあると知ると臆病風が吹いたのか、交わりや食事、礼拝から足が遠のいたという出来事が起こった。その有り様にパウロは怒り、「面と向かって反対」した。使われているのは強い言葉で、一生に一度あるかないかのキレ様を表している。そして、パウロの恩師バルナバもそちらの方向になびいてしまった。▲パウロがここで「それは違う!」と立ち上がらなかったら、キリスト教はユダヤ教の域を出ず、世界に教会が建てられることもなく、ガラテヤ書を読んだルターの宗教改革もなく、真田にふじみ教会もなかったように思う。▲ペトロ転び、バルナバ去る・・・。渾身の怒りと比例して徹底的孤独を味わうパウロがいる。一方、またもや言行不一致のペトロの姿がある。いったい人は変わるのか、変わらぬのか?湖の上を歩くと言って途中恐れて沈んだペトロ(マタイ14章)。イエス様と一緒に死ねると言いながら裏切ったペトロ(マタイ26章)。異邦人への偏見を特別に取り除かれたはずのペトロ(使徒10章)。▲この後、ペトロとパウロは分かり合ったのか知らない。バルナバとパウロは後に別の道を行った。それでも福音の世界への広がりを見るとそれぞれはへりくだりと悔い改めの中で、ふたたび用いられていったと思う。それぞれに相応しく立ち続けてくださる主イエスの姿。



2012年11月18日

「生きるを得る理由」

犬塚 契

 けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。 ガラテヤの信徒への手紙2章16節

 ユダヤの空気も文化も律法の厳しさも知らぬものだから、さらりと読めてしまう16節。しかし、律法を大事にするユダヤ主義者たちが聞いたら卒倒してしまいそうな告白がこの箇所である。イエスキリストの一番弟子ペトロが、異邦人たちの集うアンテオケ教会の交わりから離れていく姿、それに追随した恩師バルナバの背中・・・それらを見ながら悲しみと痛みの中で生み出された信仰の告白。深く深く沈みに沈み、落ちては落ち、そのまま言葉失うかと思えば、突然の逆転ホームラン!というような信仰告白。「信仰はもっとも生まれそうもないところから生まれる」と読んだのを思い出す。▲「律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくため」・・・「義」と訳された言葉は、法律用語で「無罪とする」ことを意味していたが、それはむしろ紙一枚、ハンコひとつの判決でなく、「正しき関係」を表している。かつて共同訳聖書はそのように訳した。私たちの神はただただ審判される方でなく、よき関係でありたいと切に望まれる神である。その関係とは、人がせっせとなんかして、近づく方法でなく、苦行難行の中で獲得していくものでなく、またかつての宗教改革者ルターのようにひじと膝で凍った階段を祈りながら登る道でなく、イエスキリストを信じる信仰によって得られる一方的恵みの道だった。▲私たちは、その価値を知るにその代償によって知らされることが多くある。絵画でも彫刻でもその価値を金額に代えられてから驚くような者だと思う。ならば、神が関係のやり直しのために払われた代償を思う。自分では甘い見積もりを日々出している。「そんなに悪くはない、そんなに醜くはない、自分でも結構やれる!」者のために神の払われた代償は、イエスキリストの血である。「神我らと共にいます」それはキャッチフレーズでなく、現実。



2012年11月25日

「大いなる報い」

犬塚 修

 「だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。ヘブライ人への手紙10章32〜39節

 1 大きな報いを得る―キリストとの出会いは比類のない祝福を私達の人生にもたらす。その恵みは深遠である。今朝の箇所は10章全体から理解しなければならない。「キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです」(14節)とあるように、私達の完全さは私達自身の中には全くなく、ただひとえにキリストの聖なるご支配、愛、赦しという世界の中にある。主と堅く結ばれた私達は完全な恵みを得たのである。ゆえに自分の不完全さを嘆き、不安に思う必要はない。むしろ自分の弱さにこそ、キリストの完全さが表される恵みを信じよう。(Uコリント12:9)もし、私達がその完全さを主以外の所に求めたならば、絶望し、悩みの淵に沈むであろう。「確信」とは「大胆な自由、率直さ、あからさま、人をはばからない事」の意味である。主の救いの完全さを告白して、なにものを恐れず、大胆に主に従い続けよう。また「報い」は「当然支払われる賃金」である。私達の主への愛、従順の生き方は「天に宝を積む」ものとして記録され、保存されていく事を覚えたいものである。2 忍耐の大切さ―忍耐とは「ただひたすら我慢する」意味ではなく「自分の場に堅く踏み留まる事、動かない忍苦」の事である。忍耐によって人間的な頑固さや欲望やプライドが砕かれ取り除かれていく。神の業が遅いと嘆いてはならない。私達はしばしば、問題の解決を急ぎすぎてしまう失敗を犯しやすい。だが根本的な解決は「忍耐」という小道を通って訪れる。サウルはサムエルの命令に逆らい、焦り、決して成すべきでない罪を冒し、取り返しがつかない結果を招いた。もう少し忍耐し、主の最善の時を待ち続けたならばと、大変残念でならない。私達は厳しい問題が起こると心が動揺し、自分を見失いがちだが、その時こそ、神の無限大の可能性の世界に目を転ずる事が大切である。





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