巻頭言
2011年11月


2011年11月06日

招待礼拝の恵み

犬塚 契

 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。  マタイによる福音書6章9〜

 ずい分と長いこと松坂政広先生が来られるのを待っていたように思う。大学を卒業してから12年に近く経ってもなお度々、教壇での先生の姿を思い起こしていたからだろう。伝道委員会で、講師のお迎えや接待をさせてもらえることになったので、喜んで奉仕させていただいた。駅から教会まで、ぐるりと遠回りしてお連れする中で、教会の立っている場所、おかれている環境、秦野・平塚での歴史と今の課題等々を車の中でお伝えして教会に来ていただいた。「その教会の状況がどんなであれ、神様からいただいたみ言葉をそのまま語るだけ」と決めている講師の場合など、そんな寄り道を望まないこともあるのだと思う。それでも、講師の引き出しがより多くひらかれて、賜物が存分に引き出されること願って余計にドライブしてしまう。長いこと電車に揺られてお疲れだったのに、松坂先生には丁寧に傾聴いただいた。教会滞在の21時間のうちに4回のお話をしてくださった。「・・・たるものかくあるべき」というメッセージでなく、まず自分の生きている場所を知り、真にことばを交わしながら、礼を尽くし愛を尽くしての関係作りを教えられた。それはきっとこの地に生を受けた者たちの醍醐味なのだと改めて思った。▲松坂先生と一緒に朝食を食べた。近くの回転の早いファミリーレストランだった。食べ終えて箸を置くと、すみやかに食器を下げにウェイトレスさんが来た。「お済になったお皿をお下げしてよろしいですか?」。すでに手は伸びているから、ノーとは言えない。いつも早いんだ、もうちょっとそのままでゆっくりコーヒーを飲みたかったと思った。そのウェイトレスさんに松坂先生が「たいへん、美味しくいただきました」と丁寧に声をかけ皿を差し出すのを見た時、“恵み”がその場にドッと流れるのを感じた。空気が入れかわった。自分がずっと待ち、楽しみしていた理由は、きっとそんな恵みの空気だったのだ。・・・で、それは「赦す恵み」をいただいて、どこからでも始められるものなのだと。



2011年11月13日

先週の説教要旨…「源流」

犬塚 契

 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」                       マタイによる福音書12章13〜

 きっと質問者は弟だった。当時、親の遺産の多くは長男のものとなった。彼には納得がいかなかったのだろう。多くの群集に聞かれても恥ずかしくないくらい正当性が彼にあったのかも知れない。彼がどれほどまでに親の最後に尽くしたかは彼の家族も彼の近所も知るところだったとしたら、その言葉はやはり傾聴に値する。正しく分配されるべきだと居合わせた皆は思っただろうか。しかし、イエスキリストの応答は、なんとも取り付く島のないようなものだった。その土俵には乗れない…、その延長では話ができない…、それは受容してからの課題ではない…、そんなピシャリとした言葉がここにはある。イエスキリストが見られたのは、貪欲の泥沼にある兄弟の姿だった。貪欲とは十戒にも戒められている「むさぼり」のことであり、欲深く欲しがる、人のものまで欲しがる、際限なく欲しがることだ。持つ者はさらに欲しくなり、持たざる者は「妬み」としてその虜となる。一体これらから自由になるとは可能なのだろうかと思う。数年前に「音楽史上最も稼いだ男」が5億円の詐欺事件で逮捕されて驚いた。100億円を稼ぎながら、なお足りなかった・・・。最近でも製紙会社のトップがカジノでの浪費していたことをテレビで知った。ただの反面教師ではない。幸い、そんな場が与えられないだけで、自分に内にある変わりない貪欲を思う。お金だけでなく、物も、人も欲しい。もっと賞賛して欲しい、もっと味方して欲しい、もっと共感してほしい、もっと敬意を払ってほしい。水道管の亀裂から水がジワリと染み出るように、空しさと寂しさが過剰に心広がり、締め上げ苦しくなる時、私自身が“貪欲”の誘惑にさらされているのを思う。時に被害者的な感情が“貪欲”を見え難くしていたとしても、すべてを自分の支配におきたいというそれを隠すことはできないのではないかと思う。またそれを明らかにしてくださる聖霊の働きを祈る者でありたい。▲「神の前に豊かに」とイエスは言われた。それは時にピシャリと罪と手をつないで遊ぶことを止め、自分が常に支配者となるような生き方を放棄し、そうしてようやく見えてくるいのちの創造主からの与えられ、紡がれてきた人生の物語を再び真剣に神の前に差し出していくことだなのだと思う。「神の前に富む者」として生きる。そこに人の比較はいらない真の豊かさの源流がある。



2011年11月20日

「なおも」…先週の説教要旨

犬塚 契

 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」そして、イエスは次のたとえを話された。       ルカによる福音書13章1-9節

 理不尽な死を前にしてのイエスキリストの言葉がルカの13章。シロアムの給水設備が壊れて下敷きになり18人が亡くなったという大きな痛ましい事故。歴史家たちの記録が残っていないので詳細は不明。それでも、ここで働く人々は神殿税の滞納者であったとも言われる。問われているのは、自業自得、自己責任、因果応報だろうか・・・。「イエス様、彼らの罪がこのことを招いたのですよね?」というような。あわせて質問者もどう理解していいのか困惑していたように感じる。怒りか裁きか焦りか諦めか期待か…。「何人かの人」の質問は、多くを含むものだった。▲「悔い改め」がテーマであったら、イエスキリストはこう答えるべきだったと思う。「…罪深い者だったと思うのか。そうだ!言っておくが、あなたがたも…」。そうすれば人は震え上がり、悔い改めたかも知れない。しかし、実際には「決してそうではない」と言われた。だから余計に戸惑う。理不尽な出来事は、罪深い者に起きるのだという考えを否定された。生まれつき盲目の青年を前にして、この人の罪でも親の罪でもないと言われたこともある(ヨハネ9章)。「決してそうではない」の言葉を嬉しく聞いたのは、恐らく事件・事故の被害者の家族だろう。それは突然の逆転判決だった。それでも、ヨブ記から問われてきた“理不尽な苦しみ”に対するせっかくの応答のチャンスをイエスキリストは無駄にしたようにも感じる。しかし、YESかNOの答えだけでは生き得ない私たちの“生きる”への励ましを教えられる。そして、イエスキリストが伴なわれる場でいささかの実を結ぶことを待たれる神の姿があることを思う。



2011年11月27日

「神の国は広がって」…先週の説教要旨

犬塚 修

 イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。 ルカによる福音書12〜13節

 13年間も病気で苦しんできた女性は、辛い病と闘いながら、安息日に神を礼拝していた。その人にイエス様は「婦人よ」と優しく呼びかけられた。これは母マリヤに言われた尊敬と愛に満ちた言葉と同じであった。そして、完全な癒しを宣言された。このすばらしい癒しによって、この女性は地面しか見えないという不自由さから解放され、広く360度全体を見渡せるようになった。それは喜びと希望に満ちた瞬間であった。「百万本のばら」という歌がある。貧しい絵描きが全財産を投げ打って、大好きな女優のために百万本のバラを広場に敷き詰めた。それはまさに「真っ赤なバラの海」のようであった。それを窓から見た女優は喜びと感動に溢れた。この貧しい絵描きはイエス様を連想させる。私たちのために、命を捨てられた無条件の愛は、バラの海に似て、その広大さと深さに驚きを覚えずにはおれない。人生で大切なことは、何を見て生きているかという点である。もし、狭く暗く地面だけを見ていたら、歩みは悲しく苦しくなる。腰を伸ばし、心の目を開いて将来を明るく見て生きたい。一方、癒しを目撃した会堂長は、「安息日には何もしてはならない」という硬直した考え方で、その癒しを非難した。彼は「〜ねばならない」式のかたくなで、高慢の霊に取り付かれていた。私たちは心を柔らかにして、主の十字架の血潮を感謝し、未来には永遠の命の海が光り輝いていると信じよう。恵みと愛の支配を確信しよう。「神の国」は神の愛の支配のことである。それは最初はごく小さくて、からし種のようなものに過ぎないが、急速に成長し、大木になる。ゆえに小さなことを大事にしたいものである。大きなことばかりを追い求めて、結局は何もしない空虚な生き方ではなく、小さなことから実践しよう。豊かな実りが与えられることを深く信じつつ。


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