巻頭言
2010年11月


2010年11月7日

「夜明けに向う道へ・・・先週の説教要旨」

牧師 犬塚 契

ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。…そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると…。 ルカによる福音書24章13節〜

 先週は招待礼拝として、酒田のぞみキリスト教会の藤井秀一牧師がメッセージして下さった。イエスの十字架刑が執行されたエルサレムを離れてエマオへ向う二人の弟子たち。その途上でイエスに出会うが、それがイエスとは気が付かない。「目が遮られていて…」と聖書は記す。彼らは復活のニュースも知っているし、すでに隣にイエスキリストはおられる。しかし、自分のことばの自問自答だけで、イエスキリストのことばが聞えない。そうメッセージを始められた。そして、ご自分の歩みと重ねて証しと賛美をされた。活きた実体を伴ったことばとメロディに感動もし、気付きも与えられた。▲他の誰でもないまさにイエスキリストを勝手に不在にしているは、この二人の弟子ではなく私自身だと思った。もともとこの聖書箇所は10年前の私の就任式の時に、湊晶子先生がメッセージを下さった箇所だった。主任牧師になって、もう一度聞きたいと思っていたので、神様の働きに感謝した。ずーっとエマオ(日が沈む方向)に向けて歩みを進めてきたように思う。しかし、イエスキリストと出会った彼らは、エマオから再びエルサレム(日が昇る方向)へと出発したという。▲やっぱりエルサレムって嫌な思い出のよみがえる場所だったのではないか。できれば離れたいところだったのではないかと思う。しかし、そこにもなお神の働きがあったのだし、あるのだと彼らは信じて向きを変えた。▲「でも、イエス様はおられるから大丈夫ですよ」と色々と相談した私を藤井牧師は励ましてくださった。車の中で、温泉で、メッセージでそう語られ、暖まった招待礼拝でした。



2010年11月14日

「神の住まうところ・・・先週の説教要旨」

牧師 犬塚 契

道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。  使徒言行録17章23-24節

 パウロの二回目の伝道旅行がはじまっている。パウロは、ベレアでユダヤ人たちからの迫害を受けて、それ以上の混乱を避けるためか、シラスとテモテを残してアテネに向った。ギリシャの首都であったアテネ。すでに政治的中心地は既にローマに移り、全盛のアテネではなかったとしてもなお文化・哲学・学問の中心地であった。自分の故郷タルソとも、今まで訪れたどの町とも違う異様なまでに激しい異教の神々。パウロは腰を抜かすほど、驚いたことだと思う。女神を祀るパルテノン神殿がそびえ、目を向けるところに神々が祀られていた。まだ知られていない神がいるかも知れないと人々は「知られざる神に」と刻んだ祭壇も造った。その有様の中で、パウロは町を一人巡り、イエスと復活について伝えずにはおれなかった。人々はパウロの教えに目新しさと興味を覚えて、アレオパゴスにある評議所に連れていった。そこはアテネの行政機関でも裁判所でもあった。パウロはそこで説教をする。▲偶像を作り続ける人々の心には恐れがある。偶像を作らざるを得ない不安がある。海にも山にも川にも便所にも…。どこに行くにもお守りのような神が必要であるし、そもそも今起きている出来事もなんらかの罰に思えるし、バチに当たっているようにも感じもする。「快楽」の乏しい自分の歩みは、ひょっとして違う神を信じているからではないのかとの疑いもよぎる。あっちの神も、こっちの神も、信じておこう。ついでにやっぱり、まだ「知られざる神」も。▲しかし、それでは神を信じることにならないのだ。とっかえひっかえ神をチェンジする自分自身こそ神ではないか。パウロはそう語る。天地を造られたのは誰なのか!小さく神を閉じ込めてはならない。右手に喜び、左手に苦しみをいただきながら、なお両手をもって神を信じていく者でありたい。バチでも罰でもない、神の業がこそ起きている幸いを生きる者でありたい。



2010年11月21日

「恐れるな」・・・先週の宣教要旨

牧師 犬塚 修

さて、群衆はあれやこれやとわめき立てた。集会は混乱するだけで、大多数の者は何のために集まったのかさえ分からなかった。     使徒言行録 19章32節

 F・ル−ズベルトの名言に「われらが最も恐れなければならないことがある。それは、恐れてしまうことだ」というものがある。私たちにとって、要注意すべきは、常に起こってくる厄介なことや難問題ではなくて、それを恐れたり、臆する心である。恐れによって、生きる気力が奪われ、不安定な歩みをしてしまうのだ。▲パウロは、ギリシアの首都アテネにおいて、熱心な伝道を行なった。アテネ人が誇っていた英知、学識、哲学を用いて、何とかして福音のすばらしさを語った。だが結果は決して芳しいものではなかった。そして、パウロは意気阻喪し、コリントの町へと向かった。その道中、失意と絶望感の中で、彼は深い真理を会得した。それは今後、福音を宣べ伝えるのは「霊と力だけ」を用いようとする決意だった。(Tコリント2章1〜5節)そして、ついに「恐れ」という呪縛から解き放たれたのだ。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」(使徒言行録18:9〜10)この町に数多くのキリスト者が自分の到来を待っていることが示され、希望と勇気を与えられた。▲また、恐れは「〜ねばならない」という偏狭さから生まれることが多い「。こうであるべき」と思い込むと、ほかは見えなくなり、大失敗してしまう。大切な事は、相手の手厳しい忠告にも、心を砕いて謙虚に耳を傾ける心のゆとりを持つ事である。自分の思いをあくまでも通そうとすると、あらゆるものに対する恐れを引き寄せてしまう。▲私達の人生は、操り人形を操作する人形師のようなものではない。決して無意識的に相手を自分の意のままに動かそうとしない事だ。▲かえって、自分の思い、願いを主にゆだねて、愛する主にi導かれていく「操られ人形」(?)のような闊達さや自由さを得たいものである。これが真に主体的な生き方である。人はみな、自分がいつしか支配になり、主の座に座ろうとする誘惑の時があるものである。それを拒絶して、ただ主に導かれていく歩みには、深い自由さと喜び、また尊厳さが伴う。それは「何があっても、大丈夫!」と宣言する人生である。「私はたとえ、死んでも心配しない」という純真で、一途な信仰告白に満ちた教会生活を目指したいものである。



2010年11月28日

「混乱を糧とせず」・・・先週の宣教要旨

牧師 犬塚 契

さて、群衆はあれやこれやとわめき立てた。集会は混乱するだけで、大多数の者は何のために集まったのかさえ分からなかった。     使徒言行録 19章32節

 多くの乳房を蓄えた豊穣・多産の女神を祭るアルテミス神殿がそびえていたエフェソ。世界七不思議にも数えられたその神殿は、アテネのパルテノン神殿の数倍といわれた。街の銀細工師たちはその神殿模型を作っては、参拝者たちに販売して利益を得ていた。このエフェソにパウロたちは3年ほど滞在し、腰をすえて伝道を広げていった。「エフェソばかりでなく、アジア州のほとんど全地域で、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている」(26節)と言われているように、エフェソを中心にアジア州にまで熱心な伝道が広げられていたようだ。しかし、銀細工師たちにとって、「手で作ったものなど神ではない」とメッセージを語るパウロは目の上のコブであり、商売敵だった。その職人集団をとりまとめていたデメトリオという人がけしかけて、人々を扇動するとパウロたちへの批判が噴出し、街が混乱に陥ったと19章は書かれている。しかし、冒頭の箇所・・・「大多数の者は何のために集まったのかさえ分からなかった」・・・。▲銀細工師の失職に同情があったわけでもない、アルテミス神殿の権威失墜に怒ったのでもない、パウロ一行にもともと不満があったのでもない。ただただ混乱が欲しかった人々が大勢いた。最初のきっかけは知らない、しかし既に理由はなんでもいい、みんなぐちゃぐちゃだと都合がいい。みんなで混乱だと安心なのだ。ひどい有様や混乱や多忙がを作り出す麻薬は、真に自分が向き合うべき課題を遠くに追いやってくれる。とっても便利なのだ。▲時々、自分が「混乱」を愛し、逃げる者であると思うから、逃げられない人々のことが強く心に残る。病や厳しい状況の中で、「忙しさ」に逃げられない状況にある方々、「混乱」でごまかせない現場に置かれている方々のことを思う。その中でただただ低くシンプルに響き続ける創造主の声がある。「誰があなたを救うのか」「あなたはなぜ、なんのために生きるのか」。▲やがて天において神から問われるのは、年俸でも学歴でも賞賛の数でもないのだろう。神が知りたいのは数字で計れないものだ。あなたは忠実であったか、仕えたか、愛したか。


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