巻頭言
2009年11月


2009年11月1日

忍耐を働かせる

牧師 犬塚 修

だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報い があります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍 耐が必要なのです。            ヘブライ10:35〜36

私達の神は恵みにあふれたお方です。神は自らが愛する子供が何を切 望しているかをご存知です。けれども求めたものがすぐに叶うかどう かは分かりません。ある時は、長い間待たされる事もありますが、求 めが神の御心に叶っているならば、願いは必ず聞き届けられます。ゆ えに、自分の報いが伴う確信を捨ててはなりません。長くかかった分 だけ、利息がふくらんで戻ってくることでしょう。 またもし、今の時点では、いまだ実現していなくても、心配いりませ ん。すべてにふさわしい時があります。「何事にも時があり、天の下 の出来事にはすべて定められた時がある」(コヘレト3:1) にもかかわらず、自力で門を無理矢理にこじ開けて入ろうとすると大 変です。焦らず、ゆっくりと構えてジタバタしない事です。忍耐は豊 かな実をもたらします。土中深く竹の根が広がるように、信仰も深ま っていきます。待望の期間は訓練の時、恵みの時なのです。万一、根 が張っていないならば、どんなに聳え立つ竹も強風によって倒れてし まいます。忍耐心は私達の宝です。いつでも、光輝く明日を夢見て、 喜びと感謝、確信を抱いて日々を過ごす事です。アウシュビッツとい う最悪の環境下で、最期まで生き延びた人々の多くは、厳しい現実の 中でも感謝した人、どんな些細な事にも感動することを続けた感受性 の人々であったと言われています。私達もそう生きたいものです。



2009年11月8日

「収支」

牧師 犬塚 契

喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。 マタイによる福音書5:12

召天者記念礼拝後に、富士霊園にて墓前礼拝。墓石の後ろに立つと、 2000年を過ぎて名が刻まれた人たちも多かった。短くも長くもそれぞ れの使命を終えられて天に召されたことを思った。▲イエスキリスト が旧約聖書に再三再四登場するメシアだと弟子たちが広めたのは、キ リスト復活の後だった。▲そもそもイエスキリストが逮捕された時に 、弟子たちは一人残らず逃げた。命が惜しかった。ペトロは、師匠が 心配で近くにいようと勤めたが、女性にイエスの仲間であることを指 摘されると三度否定した。同じことを幼稚園児に言われても、慌てて 否定したと思う。そのくらい弱く、ビクビクと脅えていた。「あの忌 まわしい十字架刑を受けた犯罪人は、私の仲間で、師匠で、救い主で した!」と告白するなど、正気の沙汰ではない。やっぱり狂気である 。それでも復活後のイエスに出会った彼らはそう告白して天に帰った 。▲お金の言葉で表現するのはおかしいかもしれないが、墓石に刻ま れた名前を見ながら、一人ひとりの人生の収支を考えてしまった。喜 び、楽しみと痛み、悩みの収支は合ったのだろうか?神様はどう考え ているのだろうか。▲弟子たちの生き様から始まって、その後の歴史 で信仰をもった人々の歩みを見るときに、神様は必ずしもこの地上の 期間で収支を合わそうとは考えておられないようだ。地上の最後の瞬 間にプラスマイナスゼロにすることに関心はないように思う。しかし 、天では合うのだと聖書は語る。それは、終始ゼロでなく大きな報い があると。そう信じた証人たち数はおびただしい。▲喜望に絵本「は らぺこあおむし」を何度も読んだ。喜望は、あおむしが蝶になる最後 のページが大好きで、すぐにそのページを開きたがる。カラフルなそ の絵本を眺めながら、地上にいる間、私はいつまでもあおむしだと思 った。どんなに着飾っても、背伸びしても、腹ペコでも満腹でもやっ ぱりあおむしで…。やがて、最後のページを開くときに復活の体が与 えられるのだと思うと嬉しくなった。▲「・・・キリストは死者の中 から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」  Tコリント15章20節



2009年11月15日

「心は喜び」

牧師 犬塚 修

わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺ら ぐことがありません。わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安 心して憩います。あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく、あなた の慈しみに生きる者に墓穴を見させず命の道を教えてくださいます。 わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜び をいただきます。詩編16:8〜11

これは不朽の名言です。私達の心に平安と喜悦を与える神の言葉です 。私達は「自分の行なった行為が果たしてこれで良かったのか」と疑 問に感じたり、「もしかして誤解を生んだのでは…」とか、「これは すべきではなかったのでは?」と後悔する事はないでしょうか。そし て、人知れず、悔恨の思いにとらわれ、平安を失うのです。しかし、 ここに、いろいろな悩みから完全に解き放たれる秘訣が記されていま す。それはこのみ言葉を胸に刻み、反復し、その恵みの言葉を確信し て生きることです。 「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものは なかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないよ うな試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられる よう、逃れる道をも備えていてくださいます」(Tコリント10:13) ともあります。み言葉に従うならば、思い煩いは不思議にも霧散して いきます。主は私達を愛し、慈しみ、万事をプラスに変えてくださる 慈愛の御父であります。もし、心が不安に満たされたならば、すぐに 思い出すべきはみ言葉なのです。み言葉には、新しい歴史を造り上げ られる神の愛が刻まれています。



2009年11月22日

「盲 点」

牧師 犬塚 契

しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがた の罪がある。(口語)         ヨハネによる福音書 9:41

眼科に寄る用事があって、健康な人の目も実は見えていない部分があ るのだと聞いた。「それを盲点って言うんです。普段は脳がそれを補 っているのですが…」。そういえば、そんな話を昔聞いたことがあっ た。それで気になってネットで調べてみると、自分の盲点をチェック できるソフトがあり試してみた。「百聞は一見にしかず」で自分にも 盲点があることをはじめて知った。…で思い出したのが上記の聖書の 言葉だった。▲渡辺裕子先生が「共依存」の学びを月一度教会でして くださって、心に残るフレーズが二つ。「順調」という言葉と「深刻 になりすぎない」という言葉だった。課題に対して、愚痴と不平を言 い始めると犯人探しや原因探しに終始してしまい、好循環でなく悪循 環するものらしい。与えられた情況に、「順調」という言葉ひとつ使 うことでなんだか先に希望があるように聞こえる。「深刻になりすぎ ない」というのも必要な言葉だった。思えば見えていると思っている ものも、本当は見えてないのだ。私も1万2千5百日、気付かなかった 盲点があった。すべてを掌握したように、深刻になりすぎるのを控 えようと思う。立って半畳、寝て一畳。造られ、生かされている者 に過ぎないという認識は、人を自由にすると思う。



2009年11月29日

点から線へ

牧師 犬塚 修

すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かってい るのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。 ロマ11:36

11/22〜23の二日間、わが母校である神学校(TCC) の同窓会(奥多摩福音の家)に家内と共に参加しました。恩師であ る宮村武夫先生の古希祝賀と、先生の著作集出版を覚えての小さな 集いでした。神学校を卒業して約40年ぶりの再会という事で、果た してどんなに変わっているかという楽しみもありました。「オッ、 誰だっけ?」という絶句で始まった交わりでしたが、しばらく話し ているうちに40年前とは全く違わない一面を発見して喜びあうとい う懐かしい青春時代に返った恵みのひと時でした。たとえば、当時 はかわいい感じであったハンサムなY君が見事な白いあごひげを蓄 え、主のために一生懸命、出版事業に励んでいる働きを知り、心打 たれました。 共に夜遅くまで40年の歩みを話し合った時、それぞれが歩んだ道は 大変異なっていましたが、主のご支配とあわれみは確かなものでし た。これまでの40年、主の奇しい助けと恵みがあった事を感謝せず におれません。もし私達が自分の人生を「点」的なものとして理解 したならば、おそらく感謝は生まれず、孤独感と不安と空しさに囚 われたかもしれません。点としての人生に関しての捉え方は孤立と 寂しさに至る気がします。しかし自分史を「点」でなく「線」と捉 えると、感謝と平安に導かれます。確かに、歴史の主である神が、 人生における出来事を単なる点としてではなく、点と点を結び付け、 一つの線として下さっていました。 一見何のつながりもなく、無 秩序に見える出来事の中でも、神のご支配があり、豊かな意義と意 味がある「線」として堅く結びつけ、一つの作品を作り続けておら れたことを痛感しました。将来もそうです。神のこの歴史支配に思 いを馳せますと、静かな喜びが内側から湧いてきます。


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