巻頭言 2008年11月 |
「男の子、喜望(のぞみ)と名付けました」
牧師 犬塚 契
9.11以降の殺伐とした終わりのない、作り出されていく「戦争」
。富める者の富の独占と広がる格差。際限のない欲求。搾取と構
造の暴力。地球温暖化、人口増加、食糧危機、それに伴って生み
出される膨大な難民たち。物を大切に使うCMでなく、「エコ」
の印籠を出して買換えを迫る企業。これからの時代を考え始める
と、なんとも暗澹たる思いになる。これからを生きる子どもたち
はなんともハードルの高い歩みを強いられるのではないかと…。
よっぽど強く、たくましく、抜かりなくの育児を心がけなくては
と余計なプレッシャーもかかり、眉間に皺が寄り、愚痴が出る。
しかし、隣人を蹴散らしていくような強い子では、見ていてあま
りに悲しい。必要なのは、「強さ」か?「数」か?▲「王の勝利
は兵の数によらず 勇士を救うのも力の強さではない。馬は勝利を
もたらすものとはならず 兵の数によって救われるのでもない。見
よ、主は御目を注がれる 主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人
に。」(詩篇33編)▲必要なのは「主の慈しみを」なお望む人だ
と聖書は語る。数には足りない、強くもない、しかしここになお
「のぞみ」があると。だから、誕生した男の子に「のぞみ」と命
名した。▲しかし、最後に残った一本のくじを引くような「のぞ
み」ではなく、「その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみと
なる。多くの人もその誕生を喜ぶ。(ルカ1章)」ような、主に希
望を置く、嬉しい「喜望」である。
「誘惑に勝つ」
牧師 犬塚 修
そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、 天国ではだれがいちばん偉いのですか」。すると、イエスは幼な 子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、「よく聞きな さい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはい ることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする 者が、天国でいちばん偉いのである。また、だれでも、このよう なひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わた しを受けいれるのである。 マタイ18:1〜5 |
幼な子の卓越性は自分の弱さを良く知っている事です。すなわち
、自分は親の厚い保護の中でないと、生きられないという事実を
本能的にキャッチしているのです。幼子は小ささ、弱さ、未熟さ
、わがまま、未完成、無能、無力であり、「何ができるか?」と
いう功利主義的な価値基準からは、遠く離れており、「子供であ
る」というただそれだけの価値基準で生きています。そこがすば
らしいのです。
一方、この世は拝金主義になりやすく、常に役に立つかどうかと
いう思いで自分や他人を測ります。そこで生まれるものは、疲労
感であり、また挫折感などです。だが、幼子はそこに「いてくれ
る」だけで、非常に深い慰めと希望を与えてくれます。私たちの
最高の模範は幼子です。彼らは一生懸命に親を求めて生きていま
す。ところが、私たち大人は神を求めず、期待せず、何でも自分
の思い通りにしようとします。完全を求め、有能さ、名誉を極度
に尊び、成績 、実績、成果を必死で求め、他者と競いますが、
弱さは否定しようとします。その結果、高慢になり、自分が神の
ようにふるまうように変質するのです。真の大人は自分の弱さを
熟知しており、互いに助け合って生きようと努めます。今朝は、
幼子のすばらしさを再確認し、彼らの祝福を祈る礼拝の日です。
彼らが教会に与えられている恵みに感謝します。
「共に建てられて」
牧師 犬塚 修
キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主に おける聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも 共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。 エフェソ2:21〜22 |
ある時、教会堂にいて、不思議な感覚に襲われました。目からウ
ロコが落ちたような深い感動が一瞬与えられたのです。
それは、かすかな声が自分の心から響いてきた時でした。「共に
生きるために、我々は創造された」という声なき声でした。その
瞬間、灰色の世界が突然、鮮明な色彩に彩られたような感がした
のです。なぜ、この言葉がそんなに自分の心にしみたのかと、今
考えますと、おそらく、苦しみの問題が少しずつ解決できるよう
な喜びが与えられたのだと思います。
考えてみると、苦難という魔物は思いがけない形で私達の生活を
脅かします。そして、心は混乱し、絶望感、失望感、挫折感など
が激しく押し寄せるものではないでしょうか。けれども、もし私
達がこの苦難は、お互いが「共に建てられるために」神から与え
られたものと悟るならば、心は不思議にも軽くなります。「それ
どころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要
なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思わ
れる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分を
もっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そう
する必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き
立たせて、体を組み立てられました」(Tコリント12:22〜24)
とあります。今、自らが恵みによって強くされているならば、今
は、いろいろな理由で弱くなっている人と共にゆっくりと歩むな
らば、今まで自分の中に眠っていた愛の心が芽生え、育ち、つい
には愛に導かれた神の国が着実に建てられていきます。それがど
んなにすばらしい出来事かと心から信じるものであります。
「私たちの誇り」
牧師 犬塚 修
そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知って いるのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むと いうことを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたし たちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注が れているからです。 ロマ5:3〜5 |
「苦難」はギリシア語では「圧迫され、狭められている状態」を
意味します。それは不自由、窮屈な姿であり、決して好ましいも
のではなく、むしろ、悲しみや怒り、また不快をもたらします。
ところが、パウロは、この苦難が、深い忍耐を生み出す原動力で
あり、やがては希望に至ると明言しています。彼にとって、苦難
の中には豊かな可能性と恵みがあったのです。
人生における圧迫や孤独、万力で締め上げられているような束縛
感、自他への不満と怒りなどで、人生は複雑な色彩を帯びていま
す。それは閉ざされた世界と感じられ、その問題の深刻さは、や
りきれないものと思われます。だが、その深い世界にも、神の恵
みは確実に届いているのです。ユダヤの南方にある「紅海」は、
深度が491mにも及ぶものであり、アフリカ大陸とアラビア半島
の両方から狭められている細長い海です。ここは、川からの水が
流れ込まないので、透明度は世界有数であり、また驚くほど多種
多様の美しい魚たちが優雅に遊泳しています。
これを見ると、神の不思議な創造の鮮やかさに感嘆します。私た
ちの人生も紅海と似ている一面があります。喜びと感謝、平安と
幸福、また孤独と誤解、圧迫と不自由などの相反するものが複雑
に絡み合いっていますが、それが、いつしか、多種多様の生命を
育てる結果になるのです。「わたしは知った。すべて神の業は永
遠に不変であり付け加えることも除くことも許されない、と。神
は人間が神を畏れ敬うように定められた」(コヘレト3:14)。
「信仰と忠誠と」
牧師 犬塚 契
1.まぶねの中に うぶ声あげ 大工の家に ひととなりて
貧しきうれい いくる悩み つぶさになめし この人をみよ
新生讃美歌 205 「まぶねの中に」 |
幼い時、新聞に挟まれて届けられるカラフルなチラシを見るのが
好きだった。特にこの時期はサンタが運ぶクリスマスプレゼント
の選別に心が躍っていたと思う。クリスマスの朝、いつの間にか
枕元に置かれたプレゼントにはビックリした。朝を迎えると願い
が叶っているという感動の瞬間、「信じる」と「与えられる」と
いう経験ができる貴重な日だった。教会の青年がその正体をばら
すまで、そんな時期は小学校2年生まで続いた。▲同じように、
伝道集会、講演会、礼拝で聞く話は、「信仰」によって「与えら
れる」心踊る世界を教えてくれた。聞くたびに「やってみようか
」という気になった。聖書にもそんな記事がたくさん散りばめら
れている。カラスが食料を運び、壷の粉は尽きず、水はぶどう酒
に変わり、水の上を歩く…。そう、小さな信仰は山をも動かすと
。▲育児休暇とか研修とかで少しお休みをいただいて、礼拝堂の
後ろで礼拝に参加させていただいている。講壇よりも先にたくさ
んの背中が見える。教会に来て思うこと、幼い時からずーと教会
に通って思う不思議は、クリスマスの朝にたとえプレゼントが見
当たらなかったとしても、なお顔を上げて讃美している人々を見
ることである。フィリップ・ヤンシーは、それを「信仰」とは別
の言葉で表現している。『「忠誠」という古くさいことばを使お
うと思う」』。▲礼拝堂で、この「忠誠」を目の当たりにすると
き、「あぁ、礼拝でもしよう」という自分自身の上っ面が剥がさ
れて、真の課題を突きつけられ、「忠誠」の後に続きたく思う。
それは「いくる悩みつぶさになめしこの人をみ」ることにつなが
ることであり、また…
4.この人をみよ このひとにぞ こよなき愛は あらわれたる
このひとをみよ この人こそ 人となりたる 活ける神なれ
と告白していくことなのだろうと思う。