巻頭言 2007年11月 |
「心の形」
牧師 犬塚 契
平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメ ン。 ローマ15:33 |
「所有しているものや、権力の有無によって幸せをはかろうとする
ことは、危険です。幸せは、心の内側の聖なる部分からもたらされ
るものです。人は何と安易に幻想に惑わされてしまうことか。自分
が世界の中心であると思ってみたり、あるいは反対に、自分はいな
いに等しい、という気持ちに陥ったりするのです。…しかし、自分
が生きていていい、と思える理由はただ一つしかありません。それ
は神が、自分を愛してくださっているということです。」(ジャン
・バニエ著 「暴力とゆるし」)
私が幼い時、教会学校ではハート型に切り抜いた画用紙を心に例え
て話がされた。赤とか黒とか白とか黄色。子供ながら「そんなにコ
ロコロと色なんて変わるものか」と思っていた。今は思う。実際の
心はもっと様々な色や形に変化する。大抵、美しいハートではなく
、もっとイビツで、色は地味だ。…で今更ながらそんな形にびっく
りしたりする。そんなのオカシイと思い、一生懸命に自分で修復を
試みる。「大人」になればなるほど、隠れて修復しようとする。素
人の粘土遊びのようで、さらにイビツさは増していく。▲「平和の
源である」のは神で、源はわたしたちではない。色々なかたちの心
を見たであろうパウロが、願った祝福の言葉。「平和の源である神
があなたがた一同と共におられるように」▲そうであるように心を
神のところへと預けていきたいと思う。
「教育と教会」を迎えて
牧師 犬塚 修
わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわた しの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあな たに天の国の鍵を授ける。 マタイ16:18〜19 |
「この岩」とは、ペトロの「あなたはメシア、生ける神の子です」
というイエス様に対する信仰告白を意味します。ペトロ(岩)は男
性名詞ですが。この原語は「ぺトラ」で女性名詞ですので、ペトロ
という人物の上ではなく、彼の告白自体を意味しているのです。キ
リストの教会はこの岩の上に打ち立てられました。無論、この告白
にペトロの全人生がかかっている事は言うまでもありません。
彼は平凡な漁師として日夜、漁に明け暮れている中でイエス様と出
会いました。それは運命的な出会いでした。信仰心に満ちていたペ
トロは「このお方は私が長年、探し求めていた救い主だ!」と悟り
ました。そこから彼の人生は大きく広がっていたのです。彼は喜び
に溢れ、後年、キリスト者にこう書き送っています。「あなたがた
はキリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、
言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。そ
れは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからで
す」(Tペトロ1:8〜9)と。苦界と称せられるこの世で、私たちは
重大な使命が託されています。教会は「主イエス様を信じましょう
!」と語り続けねばなりません。教会は暗黒の海を照らす輝く灯台
に似ています。主は「あなたがたは世の光である。山の上にある町
は、隠れることができない」(マタイ5:14)と言われました。
「騒音」
牧師 犬塚 契
そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいと することを行っていた。 士師記 25:21 |
「私たちは観想的な祈りをすることによって、次から次へと私たち
を追い立てる事態や、神の心や自分自身を忘れてさ迷ったりするこ
とから、自らを守ることができます。観想的な祈りは、道行くとき
も、移動している最中でも、また暴力や戦争の騒音に取り囲まれて
いる時でさえも、私たちを住むべき所に安全に根付かせてくれます
」(ヘンリー・ナーウェン:「イエスの御名で」)▲士師記が現代
的な響きをもっていると感じるのは、「そのころ、イスラエルには
王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた」と
いう悲しい一文があるからだ。よく似ている。否、そのままだ。地
球の土は、すでに血と涙を吸いすぎた。イラクをインターネットで
調べると出てくるのは死体の山だった。「それぞれ自分の目に正し
いとすることを行っていた。」▲なんてたくさんの騒音に巻き込ま
れて生きているのだろう。なんてたくさんの騒音を聞きながら、取
り乱しているのだろう。何に心を向けていたのだろう。心で泣きな
がら、顔で笑って歩いている。傷ついているはずなのに、無視して
生きている。そして、少しずつリズムが狂ってしまう。▲ナーウェ
ンは、繰り返し、繰り返し、繰り返し、祈りの訓練によって愛の声
に耳を傾けるように薦める。また詩篇の記者は、こう薦める。「静
まって、わたしこそ神であることを知れ。」(詩篇46:10口語訳)
。▲教えていただいた。祈り続けること、それが本当は、私の生命
線なのだ。
いじめの犯罪性
牧師 犬塚 修
殺してはならない。 出エジプト記20:13 |
近年、いじめが深刻な社会問題となっています。益々、いじめは陰
湿化、またエスカレ−ト化して、歯止めが効かないようになってい
る感がしてなりません。いじめは許し難い犯罪です。それは殺人に
結びつく死の毒に似ています。それは地獄の苦しみをもたらします
。もし自分が同じ目に会わされたならば、どんなに辛く苦しいかに
ついての正常な感覚が失われています。「弱い者いじめ」は卑劣で
醜い罪です。悪魔は人間を用いて弱い者を傷つけ苦しめます。その
苦悩から解放されるためには、心の目を天に向ける事が大切です。
天には、宇宙を創造された神、すなわち天の御父がおられます。「
あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は今
、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖(あがな)う。あ
なたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通ると
きも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは
押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃え
つかない」(イザヤ書43:1〜2)とあります。神は私たちの最強の
味方なのです。主は決して私たちを見捨てられません。主は苦しめ
る悪の業をジッと見て、必ずさばきを下されると聖書は語ります。
パウロは「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい
。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われ
る」(ロマ12:19)と記しました。私たちの命は神のものです。命
は決してスペアがない唯一のかけがえのない神の宝物なのです。