巻頭言
2006年11月


2006年11月5日

“confidence”

牧師 犬塚 契

どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。 Tテサロニケ 5:18

えーと、十代後半、地に足が着かないというか、うつろで生き ていたというか…。何が足りないのか、一所懸命考えていた。 そして、浮かんだ答えが「自信」だった。勉強中だったので、 辞書で調べた「confidence」だった。ノートというノートにそ の言葉を書き込んだ。効果は上がらなかったが、その当時の自 分を肯定できるくらいには、成長したと思う。▲逆にいえば、 「自己不信」だった。けれども、「自己不信」の反対は、「自 信」ではなく、「感謝の気持ち」なのだろうと今、思う。自信 は、不確かだったり、安定しなかったり、失ったりする。自分 主体の基準ってやはり狂うんだと思う。だから、育てるべきは 、「感謝の気持ち」なのだと思う。ちなみに共同訳聖書の中で 「自信」を肯定的に使っている箇所は、一箇所しかなく、口語 訳では一箇所もない。「感謝」は、およそ200箇所ある。▲自 信満々で目覚め、寝るよりも、感謝の気持ちで目覚め、一日を 終える方が、神が望んでおられることのなのだと思った。
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。 どんなことにも感謝しなさい。
これこそ、キリスト・イエスにおいて、 神があなたがたに望んでおられることです。



2006年11月12日

「中途半端に生きる」

牧師 犬塚 修

「あなたは、わたしに従いなさい。」ヨハネ21:22

私は先日の神奈川連合牧師会に参加しましたが、その時の講師 は78歳にして宣教の意気に燃えたS先生でした。そのご講義を 感銘深く拝聴いたしました。先生は若い神学生時代、開拓伝道 を依頼されましたが、「それも良い経験」と考えて引き受けら れたのですが、後になって、この事が心身共にいかに辛い重労 働であるかを痛感されたというのです。数年後、ついに思い余 って恩師の先生に「自分は将来は新約学者として歩みたいので す。このままでは私は余りにも中途半端で、辛いです。」と相 談されました。その時「現場の教会から遊離した神学に何の力 があるか」と諭され、心を取り直し、「二足のわらじ」をはい てがんばろうと決意されたのです。ところが、当時、新進気鋭 の同世代の若い聖書学者が次々と登場し、めざましい業績をあ げているのに比べ、自分は日々、クタクタになって報いの少な い仕事ばかりしているというやるせない焦りを感じて、再度、 恩師の所に訪れ「先生、ぼくはこのままではだめになります。 神学研究の道は捨て、開拓牧師として生きたいと思うのですが 」と相談されたところ、恩師は「自分の意のままにならないま ま、辛い中途半端性に耐えて、自分なりに精一杯生きる事が大 切なのだ。それは主の弟子の姿ではないか」と語り、激務のた めに若くして倒れた高倉徳太郎牧師の壮絶な死を取り上げ、ハ ラハラと涙を流されたのでした。S先生は「その後、私は迷い がなくなり、二つの道、つまり神学と伝道というわらじをはい て、もう51年過ぎました」と静かに語られました。中途半端 さを受容して生きる事を教えられました。



2006年11月19日

「中途半端に生きる」

牧師 犬塚 修

「あなたは、わたしに従いなさい。」ヨハネ21:22

私は先日の神奈川連合牧師会に参加しましたが、その時の講師 は78歳にして宣教の意気に燃えたS先生でした。そのご講義を 感銘深く拝聴いたしました。先生は若い神学生時代、開拓伝道 を依頼されましたが、「それも良い経験」と考えて引き受けら れたのですが、後になって、この事が心身共にいかに辛い重労 働であるかを痛感されたというのです。数年後、ついに思い余 って恩師の先生に「自分は将来は新約学者として歩みたいので す。このままでは私は余りにも中途半端で、辛いです。」と相 談されました。その時「現場の教会から遊離した神学に何の力 があるか」と諭され、心を取り直し、「二足のわらじ」をはい てがんばろうと決意されたのです。ところが、当時、新進気鋭 の同世代の若い聖書学者が次々と登場し、めざましい業績をあ げているのに比べ、自分は日々、クタクタになって報いの少な い仕事ばかりしているというやるせない焦りを感じて、再度、 恩師の所に訪れ「先生、ぼくはこのままではだめになります。 神学研究の道は捨て、開拓牧師として生きたいと思うのですが 」と相談されたところ、恩師は「自分の意のままにならないま ま、辛い中途半端性に耐えて、自分なりに精一杯生きる事が大 切なのだ。それは主の弟子の姿ではないか」と語り、激務のた めに若くして倒れた高倉徳太郎牧師の壮絶な死を取り上げ、ハ ラハラと涙を流されたのでした。S先生は「その後、私は迷い がなくなり、二つの道、つまり神学と伝道というわらじをはい て、もう51年過ぎました」と静かに語られました。中途半端 さを受容して生きる事を教えられました。



2006年11月26日

「感謝して生きる」

牧師 犬塚 修

「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、 あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あ なたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所 に、あなたがたもいることになる。」 ヨハネ14:2〜3

私たちに帰ることのできる自分の家(場所)があるということは 主のすばらしい恩寵です。夕食を囲み、暖かい風呂に入り、ぬ くもりのある布団に包まって眠る事ができるとはどんなに大き な恵みでしょうか。もしその場所がないならば、冷たい雨に打 たれ、風が吹きすさび、心身とも疲れ果て、生きる気力を失う 事にもなるでしょう。また心は孤独で、不安と空しさに襲われ るでしょう。 しかし、主の恩寵に対して、感謝する心が忘れ去られている時 はないでしょうか。そして「私の生活にはこれもあれも足りな い。もっと、もっと必要なものがある」という欲が頭をもたげ ると、心から幸福感と感謝が消えていきます。無論、大切なも のを追い求めることも大切です。しかし、まず、「今」を感謝 する事こそが出発点なのです。現在、与えられている恵みを感 謝せず、ごく当たり前のこととして受け止めてはなりません。 それは大切なものを忘れ物とした人生です。「何を話すにせよ 、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスに よって、父である神に感謝しなさい。」(コロサイ3:17)とあり ます。心から感謝する事です。当然と考えている所をもう一度 深く点検してみますと、主のあふれる恵みが隠されています。 その恵みを発見し、喜びと感謝に生きましょう。





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