巻頭言
2005年11月


2005年11月6日

「奉仕と永遠の命」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。 ヨハネ17:3

今朝は召天者記念礼拝であります。この世でかけがえのない信仰の生涯を終えて、今や,神から義の冠を与えられたお一人一人の懐かしいお顔が目に浮かびます。この教会の歴史は1973年に開始して今年で32年になりますが、この長い年月の間に多くの人との出会いと別離がありました。現在の教会の祝福は、天に凱旋されたすばらしい兄姉の尊いご労苦なくして考えられません。いつまでも忘れ得ない尊いご奉仕に深く感謝せずにはおれません。もし私たちの交わりが単に、この世の中だけのものであるならば、これほど悲しい事はありません。しかし、私たちには比類のない祝福である永遠の命と天国の祝福が与えられています。「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」(ヨハネ14:1〜3) 愛する者との別れには辛いものであります。その悲哀から立ち上がるためには、永遠の命を強く心に確信する事が肝要です。その確信があればこそ、私たちは残された人生を絶望せずに、雄々しく生き抜く事ができるのです。そして黒人霊歌にあるように「馬車よ、降りて来い、ふるさとに帰るのだ」という天国への期待を持つ事が可能になるのです。



2005年11月13日

「礼拝での宣教」

牧師 犬塚 契

そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。 ヨハネ8章10〜11節

「礼拝での宣教」について、あれこれと考える。「自分の歩いているところで語ると既にそこを通り過ぎた方々にとっては幼稚に聞こえる。信仰もって先のことを語るとなんだか背伸びしている気になる。その板ばさみでいつも講壇に立っています。」とある宣教者が話し始めた。19歳の時に聞いた宣教の出だしだった。「聖書のテキストが裁きならば、裁きのメッセージを、癒しならば癒しのメッセージを」とは、神学校でもよく言われる。聖書に忠実あれ!ということなのだろう。最近、ある牧師との交わりをいただいた。「でもね、もう既にみなさん裁かれているんじゃないかと思うんです。講壇で裁きが語られる前に既に裁きを受けているのではと思うんです。それぞれが大変な労苦の中で…。それに増して講壇から裁きを語る必要があるのだろうかと最近思うんです。だから、私は「癒し系」メッセージですね」。私もそんな気がした。そして、後日ある人とその話をした。「癒し」か「裁き」かと?「癒される前には、十字架の前に罪が裁かれたことを知らねば、真の癒しって起きてこないと思うのよ」。うぐっ、それにも同意。さらに、後日、「裁きのメッセージでも、聞く人には癒しのメッセージなってたりしないの?」と妻。 生活の中に、神の前に立てない出来事を抱えていると確かに心暗くなる、祈りから遠のく、無力感に陥る。それでも正当化しようと言い訳は百も二百も出てくるが、神の前に通用しないことはどこか知っている。やはり、罪から報いを受けている、ある程度背信の結果を得ている、裁かれているのだと思う。それは、同時に与えられた痛みでもある。人は痛むことによって、危険を察する。目にゴミが入って痛むことによって、異物を取り除こうとする。痛まなければ、失明するまでほおっておくと思う。痛みが危険へのサインであることは、体と共に心にも同様に作用することがあると思う。ヨハネの8章。すでに彼女は裁かれていたと思う。したことの報いを十分に受けていたと言える。大勢の目にさらされ、姦淫は誰もが知ることになった。隠しておきたい罪は、強引にもあらわにされた。そして、みんな更に石で命を取ろうとしていた。しかし、誰も石を投げることができなかった。誰もいなくなった。結局、誰もいなくなった。言うだけ言い、連れてくるだけ連れきて、最後は誰もいなくなった。広いスペースにポツンと。イエス・キリスト以外には。自分が「思っていたより」無力であり、あさはかであり、逃げ腰であることを認めよう。それでも、そんな者をどういうわけか「価値ある者」とし、贖いだしてくださる方の存在が真の癒しとなっていくことを思う。決して、見放さない主を思う一週間でありたい。



2005年11月20日

心の港

牧師 犬塚 契

世界で初めて水の中でも固まるコンクリートが発明されたのは、イエスキリストの時代だった。これによって、船の停泊する港の建設が容易になり、飛躍的にローマ帝国は栄えることになる。▲人と聖書の話をする時には、心を海に例えることが多い。相談を受けるときには、大抵、その人の心の中は嵐である。そして、嵐が静まって、凪になるにはどうすればいいのかを相談される。けれども、恥ずかしながら、相談される身も嵐であることが多い。いつも凪であることを願いながらも、やはり怒りや妬み、悲しみといった波が立っている。それでも、美しい川や山、花や木々を見て、落ち着く時もあるし、聖書の言葉に励ましと慰めを得て、嵐が静まることもある。それもまたクリスチャンの醍醐味だと思うが、もう一つ、少しずつ、堅固になる心の港のイメージがある。▲港内は守られて風の影響を受けない。同じように、心の中に港をつくる。落ち着きをなくした時、取り乱した時、嵐に飲み込まれそうな時、ふと静まって、心の中にある港に行こうとイメージする。心にある小さな港にはこれまで神様がしてくださったことや聖書に記述されているイエスキリストの出来事(サマリヤで出会った女性の話や収税人、罪人の友と呼ばれた事、弟子たちへの励まし、十字架、復活等々)、また、美しい詩篇の言葉や励まされた御言葉、今日与えられた聖書の言葉がある。心にある港をイメージするまでは、船は海上を漂うが、「あぁ、港に行こう」と思うと自分が神役を引き受けていたところから、神を神とする心へと船は向かう。▲幼い頃、教会学校では暗唱聖句を覚えさせられた。その理由今では分かる。蓄えた聖書の言葉は、心の港を堅固にする。



2005年11月27日

完全主義から離れて

牧師 犬塚 修

わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。Tコリント4:3

信仰生活において戦うべきものとして完全主義があります。これに支配されると喜びの失せた窮屈な歩みになります。またこれは自覚しなくても自然に起こるので、その弊害に気づかず、後に心は痛い傷を負う結果となります。完全な人間はこの世には一人もおらず、みんなどこか傷ついており、不完全です。ゆえに自分を過ちを犯さない人間であるかのように思い込んだり、またかみしもを無理して装う事は避けたいものです。人に対しても自分の弱さは見せず、良い所だけを示そうとする必要はありません。自分の弱さを直視し、肩の力をぬいて気楽に生きたいものです。また、自分や他者を裁こうとするサタンからの誘惑を断固として拒否しましょう。心が熱く燃え、主のためになんでもしたいと熱望する時に限って、サタンは不快な出来事を起こし「やはり、お前は人生の失敗者だ」とささやき、主への絶対的な信仰を無にしようとしてきます。そして、私たちもその策略に乗せられる時があります。完全主義の罠にかかり、落ち込んでしまい、そんな自分に絶望する必要はありません。不完全なままの自分を主に捧げる事です。主は素顔の私たちを愛し、十字架の愛によって受け入れ、愛して下さいます。





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