巻頭言
2003年11月


2003年11月2日

「祝福と忠信」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

彼らの苦難を常に御自分の苦難とし、御前に仕える御使いによって彼らを救い、愛と憐れみをもって 彼らを贖い、昔から常に、彼らを負い、彼らを担ってくださった。 イザヤ書63:9

今朝は召天者記念礼拝です。主に深く愛された兄姉の事を偲びつつ、礼拝をささげる事ができました事を 主に深く感謝し、御名をほめたたえます。私たちの本当の「エデンの園、楽園、第二の故郷」はこの世では なく、天国にあります。この地上の生活は仮の庵にすぎません。完全で最高の幸福は、天国に帰ったのちに あると聖書は語ります。そのワクワクした約束を思うと、今がいかなる厳しい状態であろうとも、喜びと平安が わいてきて、希望や忍耐を抱いて生きる事ができるようになります。確かに、私たちは、後に残された寂しさ もありますが、それ以上に、私たちがこれから行く永遠に続く「エデンの園」を予感して、「今日」というかけが えのない一日を、深い感謝と平安中で生きたいものです。私たちの幸いは誕生、いまわの瞬間、また人生 の危機的地点などすべての局面で主に守られるところにあります。たとえ、辛い病いで苦しんでも、主はその 痛みを自らのものとして引き受け、一緒になって苦しんで下さいます。決して、私たちを苦痛に突き落とし、 自らは冷たく見るという事はありません。主は私たちの苦難のすべてをご自分のものとされたのですから。そし て、その苦しみを通して、私たちを永遠の歓喜へと引き上げられます。死は無力となり、重い栄光を受ける ための通るべき関所となったのです。この世での楽しみは一時的ですが、主が与えられる楽しみは何千倍の 豊かさです。ですから、私たちの信仰は、この世に狭く限定されたものであってはなりません。たえず、天国の きらめきを宿すものでありたいものです。故に、主の永遠にいたるすばらしい栄光の約束を信じ、忠信な生き 方を貫いて歩みましょう。



2003年11月9日

勇気を出して進む

牧師 犬塚 修

「そのとき、カレブはモーセの前で、民をしずめて言った、「わたしたちはすぐにのぼって、攻め取りましょう。 わたしたちは必ず勝つことができます」 民数記13:30

心満たされた人生を送るためには、「必ず勝つことができる」という確信をもって生きることが大切です。一方「もうだ めかもしれない」という不安感が一番の敵なのです。多くの神の民は、祝福の地を奪い取ることができませんでした。 彼らは自分の心ばかりを見つめてしまったからでした。彼らの中にあった感情は非常に否定的なものでした。しかし、 カレブとヨシュアは信仰の目を抱いて自分の外を見ました。そこには、蜜と乳の溢れる豊かな大地が広がっていたのです。 二人は、ここが約束の地であって、得ることができると信じたのです。「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、 勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」ヨハネ16:33  問題を解決する秘訣は、どこにあるのでしょうか。 私たちの信仰の深さ、大きさ、献身の度合いにかかっているのでしょうか。確かにそれらも大事でありますが、最も求め られているものは、私たちの心を外に向けることでした。ヨブは自分の人生に起きた悲劇について思い悩み、「なぜ?」 と問い続けましたが、心は憂いに満たされるばかりでした。ヨブの心にようやく希望の心に光が差し込んだのは、神の創 造の壮大さに目を留めた時でした。「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら理解して いることを言ってみよ。誰がその広がりを定めたかを知っているのか…」(ヨブ記38:4〜5)神の答えはヨブの悩みにストレ− トに答えるものではありませんでしたが、神は苦しむヨブを、狭い心の世界から広大な神の創造に導かれたのです。そこ は無から有にいたる新世界でした。一切を主にゆだね勝利と平安を得たいものです。



2003年11月16日

恵みはあふれて

牧師 犬塚 修

「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵み はなおいっそう満ちあふれました。」  ローマの信徒への手紙5:20

自分の力ではどうしようもない現実があります。どんなに努力しようとしても、うまくいかず、すべてが悪い方向に落ちていく時 があります。そして自分の弱さもまた浮き彫りにされるのです。あらゆるものに絶望し、いやになります。そのような時は、時間 と言う大河の流れに身を任せる事です。私たちは苦難の時には、いろいろと考えます。どうしたら良いのか、ベストとなるのか …と。「知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増す」(コヘレト1:18)「神は人間をまっすぐに造られたが、人間 は複雑な考え方をしたがる」(同7:29)川を流れる流木は、あっちこっちにぶつかりながら、スイスイと下に下っていきます。その 姿に深く教えられます。私たちはどうしても、何かしてあげないといけないと思い煩います。けれども、本当に大切な事は、あ る時期は、何もしない事、すなわち全能の神の御手にまかせてしまう事です。石川啄木は「雲は天才である」という言葉を 残しましたが、辛い日々は外に出て、大きく深呼吸して、何も考えず、おいしいものを食べ、自由な白い雲に生き方を学ぶ 事です。また川を見て、流れる木に心を寄せたいものです。パウロは罪が潮のように押し寄せてくる現実にたじろいでいます。 罪が減って行くのではなく、増えてくるとは彼も予想しなかった事でしょう。しかし、すぐに彼は切り替えしています。「恵みはな おいっそう満ちあふれました。」と。どんなに罪があっても、辛いことが起こっても、それで人生が敗北するのではないと、断言して います。むしろ、罪の増加によって、私たちは自分の弱さに目覚め、自分の力で何とかなるという思いを捨て去り、本当に自 然体の者として生まれ変わるのです。主の恵みがいかに深遠で、無尽蔵であるかを悟っていくのです。



2003年11月23日

完全な恵みによって

牧師 犬塚 修

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 詩篇23:1

主は私たちに豊かな祝福を用意しておられます。それを受けて、悔いのない人生を過ごすために、必要な条件はイエス様を 自分の最高、最良の羊飼いとして信じ続ける事です。その人は日々、新しい発見をします。それは、主の恵みは完全という 大きな発見です。これは、自分は完全無欠と言うのではなく、主の恵みは完全であるという意味です。自分を見つめれば欠 点ばかりが見えてしまいますが、良い羊飼いであるイエス様は、弱い私たちを完全な愛と恵みで導き、憩いの水のほとりに導い てくださいます。主は私たちを見捨てられません。たとえ今がどんなに時でも、心配しない事です。主は私たちに何が必要かを 良くご存じです。「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリ ストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」(第二コリント12:9)私たちが自分を不幸に感じる時はどん な時でしょうか。それは環境の変化よりも、自分の心の目が不自由になっている時ではないでしょうか。恵みを受けていても、 信仰心が薄くなると、悪い所ばかりが気になり、否定的な見方に支配されがちです。たとえば「私は〜であるべきだ、しかし、 そうしていない。あの人は〜であってほしいのに、そうではない」というイライラ感や欲求不満が襲うのです。また「自分の努力が 足りないので、み業が起きないのだ、このような不幸にあるのは、自分のせいだ」いう責めが加わります。今の私たちに必要なも のは欠乏感からの解放です。主にあって満足感を持つ事です。私たちには、自分の努力で勝ち取るという有限の領域と、自分 の力ではどうしようもできないけれども、神が働かれるという無限の領域があります。いかなる領域においても神の新創造のみ業 を期待して、力強く生きたいものです。



2003年11月30日

世界祈祷日礼拝を迎えて

牧師 犬塚 修

彼らに言われた、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。信じてバプテスマを受ける者は救 われる。  マルコ16:15〜16

1492年、コロンブスは新大陸を目指して帆を上げました。マゼランは世界の大海原に向かって大航海にでかけました。彼らの 目は危険に満ちていた広大な世界に向けられていました。A・ジャドソンはビルマ(現在のミャンマ−)の宣教に命を賭して立ち 上がりました、W・ケァリ−はインドに骨を埋める覚悟で、海外宣教者となりました。彼らに共通する事は、他者に対する熱い 愛とイエスキリストに対する忠信さでした。また日本伝道も幾多の伝道者たちの祈りと熱意によって開始されました。日本バ プテスト連盟に属する諸教会も、当初、米国のキリスト者たちの尊い献金と犠牲的な信仰によって生まれたものです。米国 南部バプテスト連盟は1860年、ロ−ラ−夫妻を派遣したのですが、その船は途中で行方不明になりました。彼らの高い志 は途絶えたように思われました。しかし、1889年、再度マッコラム夫妻とブランソン夫妻を送り出したのです。彼らは無事、横 浜に上陸し、日本伝道を開始したのです。このように、教会は海外伝道の志を抱いた人々の多くの犠牲と労苦の中で、育て られていきました。時として、主のために勇敢に立ち上がる人には、激しい苦難や痛みが伴う時があります。ロ−ラ−夫妻のよ うな思いがけない悲しい事件が起こる時、私たちは意気消沈してしまいます。サタンは忠信な人をひどく苦しめようとするのです 。しかし、その試練の中で、なおも、信仰を失わず、主の完全な愛の支配を確信して生きるならば、必ず勝利します。何事が 起こっても恐れず、希望をもって、再び、信仰の灯火を高く掲げて船出する事です。サタンはそのような忠信な信仰者には勝 つ事はできません。


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