巻頭言 2002年11月 |
「礼拝と救い」月間を迎えて
牧師 犬塚 修
わたしは山々の基まで、地の底まで沈み、地はわたしの上に永久に扉を閉ざす。 しかし、わが神、主よ、あなたは命を滅びの穴から引き上げてくださった。息絶 えようとするとき、わたしは主の御名を唱えた。わたしの祈りがあなたに届き、 聖なる神殿に達した。偽りの神々に従う者たちが、忠節を捨て去ろうとも、 わ たしは感謝の声をあげ、いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。救いは、 主にこそある。 ヨナ2:7〜10 |
主に逆らい続けたヨナでした。そしてついに、彼は自ら裁きを負い、海の底に沈
められることになったのです。しかし、彼はそこでようやく主に向かって叫びの
声をあげます。彼は人生において最も暗黒の時を迎えたのですが、実は、最も輝
く救いの体験に変えられたのです。彼が真剣になって主を求めたからです。「そ
れゆえ、イスラエルよ、わたしはお前にこのようにする。わたしがこのことを行
うゆえに、イスラエルよ、お前は自分の神と出会う備えをせよ。見よ、神は山々
を造り、風を創造し、その計画を人に告げ、暗闇を変えて曙とし地の聖なる高台
を踏み越えられる。その御名は万軍の神なる主」アモス4:12〜13 いかに私
たちが罪深いものであっても、ヨナのように叫び助けを切望するならば、主はそ
の祈りに応えてくださいます。救いは私たちの側にあるのではありません。主に
こそあるのです。主は私たちの弱さや惨めさを良く理解し、救いの御手をさし伸
ばされます。そして新しい将来を約束されます。パウロは救われる以前は傲慢で、
人を人とも思わない生き方をしていましたが、イエス様に捕らえられたときから、
柔和な人に変えられました。彼は人生の舵取りを主に任せたとき、すばらしい救
いの道が敷かれていく事になったのです。
「救いの時は近い」
牧師 犬塚 修
何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。 生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、殺す時、癒す時、 破壊する時、建てる時 コヘレトの言葉3:1〜3 |
「時」は全能なる神の支配の中にあります。生まれる時も、死ぬ時も人間は
決定することはできません。すべては主のみ心の中にあるのです。主の時が
一人一人に定められていることを信じることができなくなると、私たちはと
たんにあれこれと焦り、慌てふためいてしまいます。しかし、神はすべての
出来事をすばらしい益に変え、完成なさいます。私たちはそのことを強く確
信しなければなりません。パウロは「あなたがたの中で善い業を始められた方
が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたし
は確信しています」(フィリピ1:6)と記しました。主がなされることはその
当座は分からない時もあります。一時的には道が閉ざされてしまったように
も見えるでしょう。けれども、心配してはなりません。その時は祈りなさ
い!という主の呼びかけの時です。「わたしたちはまた、神の協力者とし
てあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけませ
ん。なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救い
の日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、
恵みの時、今こそ、救いの日」(第二コリント6:1〜2)とあります。いよい
よランチョンが近づいて参りました。この日、主がどんなに豊かな祝福を
もって臨んでくださるかを望み、、一人一人に主のみわざが起こされるよ
うに、祈り会に集まり、共に熱心に祈りあいましょう。また、結果の一切
を主に任せ、勇気と平安をもって誘いましょう。祈りつつ行動を起こすな
らば、勝利は必ず与えられます。
「救いと鍛錬」
牧師 犬塚 修
およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われ るのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた 実を結ばせるのです。だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさ い。へブライ12:11〜12 |
自分の願いがあっても、どうしてもうまくことが運ばない時があります。いか に願い請い求めても、その門を閉ざされる時、私たちは失望落胆し、悲しみの 念に襲われることでしょう。しかし、そこにも愛の神が働いていることを確信 することが大切です。今はだめでも、近い将来、主のすばらしいみわざが必ず 起こると信じて、立ち上がることです。そして、夢をふくらませることで、今 の試練に耐え抜いて生きることです。また、主は愛に富み、寛大で忍耐強いお 方です。どうして私たちの願いをむげに退けられることがありましょう。ゆえ に、気を落とさず、今、自分が置かれている立場を忍耐して受け入れることで す。どんなに辛い日々であってもそれを主からの愛の鍛錬の場としてとらえた いものです。救いは、忍耐というパイプを通して働きます。辛い時は、思い切 って気分転換を図ることが大切です。たとえば、スカッとするような体験をす ることで、心のバランスをとることです。ストレス解消も心がけることです。
自分らしく生きることです。良い子にならねばならないというのではなくて、
もっと自由な子になることです。人に喜ばれるような生き方だけでは疲れ果て
ます。失敗し、意気阻喪した時でも、これも必ず益になる日が来ると信じ、将
来に希望を持つことです。その希望を堅く持つことで、現実も耐えて生きえる
ようになるのです。今だけに目を留めてはなりません。輝く明日を夢見て、忍
耐するならば、すべては祝福に変えられていくことでしょう。
「救いの道」
牧師 犬塚 修
主はその僕の魂を贖ってくださる。主を避けどころとする人は、罪に定めら れることがない。詩編34:23 |
どんなに失敗しても、いつまでも苦い感情を引きずらない明るい生き方はど
うしたならば、可能になるのでしょうか。それは主を自分の避けどころにす
ることです。主により頼む人を裁かれることは断じてありません。もし主を
無視するならば、私たちは苦しみの淵に沈むこととなるのです。パウロは「わ
たしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわ
けでもありません。…ただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向け
つつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るた
めに、目標を目指してひたすら走ることです」(フィリピ3:12から14)と書いて
います。主の完全なご支配を信じるならば、私たちは大胆に「後ろのものを
忘れる」ことができるようになるのです。しかし、多くの場合は過去に自分
に起こったことが、将来を決定すると思い込んでいます。もうだめだと、絶
望してしまうのです。けれども、イエス様は愛のマントで私たちの行いをお
おい尽くされ、どんな罪も過ちも赦して下さるのです。そして、「(イエス様
は)死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖の
ために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。…事実、
御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助ける
ことがおできになるのです」(ヘブライ2:14〜18)とありますように、私たち
を苦しめるものを滅ぼし、豊かな祝福の道へと導かれます。どんなに挫折して
も、イエス様を信じて立ち、避けどころとするならば、必ず救われます。主を
信じる人は幸いです。その人はいよいよ強められていくからです
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