巻頭言
2001年11月


2001年11月 4日

 「民の悔い改めと交わり」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者 があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事を するであろう。(ヨハネの黙示録修3:19〜20)

「自分が悪かった」と素直に認める事ができるのは本当にすばらしい事です。しかし、悔い 改めは、簡単ではありません。この麗しい行為は主に心を開かなければ、中々難しいので す。私達の心はアダムの堕罪以来、生まれつき強情であり、頑固になっており、自分の罪 や非を認めるのを嫌います。しかし、このような生き方は窮屈であり、人間関係もうまく いかなくなってしまいます。自分が悪かったと正直に言える人は神に用いられる貴い器 になります。イエス様を裏切ったペトロも深い悔い改めによって、第一級のすばらしい神 の人に成長していきました。確かに柔和な人が地を受け継ぐのです。悔い改めこそ、祝福 の第一歩なのです。

一体どうしたら悔い改め、柔和な人となれるのでしょうか。それは、イエス様との交わりに かかっています。主は日々、私達と親しく楽しく会話しつつ、食事をしたいと望んでおられ ます。つまり、私達は日々、み言葉のパンを食し、楽しいぶどう酒に似ている祈り、礼拝、 奉仕などに励む生き方の中で、鍛練されていくのです。そして次第に自己中心性、他者への 傲慢さは姿を消していくようになります。イエス様は私達の弱さをあわれみ、愛の関わりの 中で癒そうとして下さいます。21世紀のキリスト教会の本当の課題は、共に生きていくと いう交わりの広がりと深化とつくづくと痛感しています。深い関わり合いを続けていくこと で、教会は必ず豊かに成長していきます。悔い改めに基く愛の交わりがあれば、あらゆる願 いも叶えられていく事でしょう。現代人が心底渇望しているのは豊かな交わりであるからです。




2001年11月 11日

 悔い改めによる恵み

牧師 犬塚 修

蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように 善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」 女が見ると、その木はいかにもお いしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒 にいた男にも渡したので、彼も食べた。(創世記3::4〜6)

罪とは神を認めない事、信じない事です。こが諸悪の根源です。罪から自己中心、エゴ イズムが頭をもたげ、ついに冷酷、無情というむごたらしい毒が百花繚乱のように広が っていきます。真の神を神として信じない事は不自然な生き方となります。自力だけに 頼ると逆立ちしたような辛い生き方となります。私達はひまわりの花に似ています。こ の花は太陽に向って大輪の花を咲かせようとします。同じく人間は神の栄光を現すとい う崇高な使命を受けてこの世に誕生したかけがえのない存在なのです。もし、花が自然 の法則に逆らうならば、生きのびることはできず、ついには枯れていくでしょう。主に 逆らう人生は不安や怒りやねたみなどが支配するようになります。しかし、私達は罪性 によってかかたくなな一面があり、中々神のみ言葉に素直に従うとはせず、むしろ閉ざ してしまう事があります。エバも蛇の誘惑に負けてしまいました。蛇が「決して死ぬこ とはない。」と断定した時、神の声は無視し、悪魔の声に従ってしまいました。確かに、 私達が求めるものは真理ではなく、欲望や快楽である場合が多いのです。一瞬の快楽は いつまでも続く不幸を私達に呼び寄せます。しかし、父なる神はそのような惨めな私達 をあわれみ、御子イエス様を遣わし、カルバリの丘において、あがないのみわざを完成 されました。主は私達の為に、激しい苦しみを耐え忍び、すべての罪を背負って死なれ ました。ここに真の愛があります。私達ができる事は、ただ一つ「主よ、私は罪人です。 あなたを信じます。感謝します」と言って従う事です。その時、私達は新たに神の子とし て誕生するのです。




2001年11月 18日

悔い改めとは 

牧師 犬塚 修

わたしは知った。人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることだ、 と。人だれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは、神の賜物だ、と (コヘレト3:12〜13)

悔い改めとは決して自分の至らなさを責め、私がダメなのだと悶々と悩む事ではあり ません。神はそのような不健全な考え方を喜ばれません。自分が心から愛してやまない 子が、いつまでも自分を卑下して、苦しみ悩んでいる姿を見て喜ぶ親がいるでしょうか。 「悔い改め」の本来の意味は「向きを変える事」です。悲しみから喜び、苦悩から平安へ 方向転換する事です。たとえ現実は少しの変わらなくてもそうするのです。それは信仰 的な決断です。清水の舞台から飛び降りるような必死の思いで、イエス様を信じて、そ うするのです。人間は罪のゆえに私もあの人もOKではないという否定的な考え方に陥 っています。私もあの人もOKという事は中々できません。しかし、イエス様を信じ、 信仰に立つとふしぎにできるように変えられていきます。いつも自分はOKではないと いう真面目さは、点検する必要があります。実は過度の謙遜さ、真面目さは時として、 重大な害を与えるのです。むしろ、時には好い加減なくらいが良いのです。お調子者、 ふまじめ、無責任、怠け者、グ−タラは、信仰の世界では新しい意味が付加されます。 これらは私達を守るキ−ワ−ト゛となる時があるのです。真面目であるがゆえに、自分 を責め、相手に悪い、迷惑をかけた、私は失格者だという否定は次第に私達をむしばみ ます。「゚私さえガマンしさえすればうまくいく」という「おしん」的な考えも信仰とは無 関係です。むしろ、もっと自由に失敗を恐れず、自分の祈っている事を実行する勇気も 必要です。失敗しても良いではありませんか。たとえ、うまくいかなくても、試みて挫 折した方が、何もしない事で、口惜しい思いを引きずりつつ生きるよりもましです。生 きる事を楽しみ、自分の思い描いた幻を追い求めて突き進む事です。み心ならば、それ は実現します。主に聞いて生きる事です。、信仰によって明るく生きる人には、主の恵 みが後から追いかけてくるのです。




2001年11月 25日

世界祈祷週間を迎えて

牧師 犬塚 修

こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体 を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの なすべき礼拝です。(ロ−マ12:1)

 私達の教会は今年から「献身の民となろう」という大きな目標を掲げて歩んで参 りました。その意味では、世界の救いのために祈るこの一週間は、私達の思いを見 事に表している機会であろうと思います。今、世界は未曾有の危機的な時代に突入 しています。人類最終兵器である核爆弾が、いつか破裂するかもしれないという不 安もよぎります。死の恐怖の暗雲が世界を覆い尽くしています。私達はこの時代の ただ中でどのように生きていけるのでしょうか。この思いを二年年前に向けた時、 解決の糸口が見えてくるように感じます。それは自分の体を神へのささげものとし てささげ、また礼拝を守り、祈りと果敢な行動をもって立ち上がることであると信 じます。当時、パウロが生きていたロ−マ支配の時代も、わずかの富裕階級と無数の 貧困にあえぐ階級がおり、とくに、奴隷と呼ばれていた者の生活は惨めなものでし た。その中で、彼はすべての人間の価値は神のみ前に尊い事、そこには何の差別もな い事を明言しました。富と権勢を誇っていたロ−マ人のプライドは砕かれ、虐げられ ていた者たちはイエスキリストに明るい希望を見出したのです。パウロは更に続けて、 命をかけてでも、礼拝を守ることの重大さを明示しています。当時、クリスチャンは迫 害を受け、礼拝を守ることが困難な一面がありました。しかし、ひるむことなく、神に 従うならば、今は心をかたくなにしている者も、いつか悔い改めるようになると、パウ ロは確信してしたのです。事実、世界は鮮やかに変革されていきました。世界の救いの ために祈りを合わせましょう。また虐げられている人々の立場に立って、物事の本質を 考え、行動したいものです。主に自分をささげ、暗黒の中で、輝く光となってキリスト を証しし続ける事です。必ず、神の平和がこの世界に実現すると確信して。



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