巻頭言
2000年11月


2000年11月 5日

新しい時代に入る

牧師 犬塚 修

だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切 れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。新しいぶどう酒を古い革袋に入れる 者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。 新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」  (マタイ9:16〜17)

主が私たちを導かれる方法には無限大の広がりがあります。決して型にはまったものではあ りません。たとえば、主は重病のナアマンをいやされましたが、それは、彼の思い描いたも のとは大分違いました。主は御自身の主権のもとで、人知を超えたふしぎなわざを起こされます。 従って、私たちに求められることは主の完全な支配を確信することなのです。今はどんなに だめと思っている人であっても、主はその人を再び立てることができると記されているので すから。

21世紀まであと、60日余りとなりました。激動の20世紀はもう少しで、終わりを告げ ようとしています。私たちはどんな悔い改めと決断を抱いて、未知の新世紀を迎えようとし ているでしょうか。愛するイエス様は弟子たちに対して、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入 れるべきと言われました。古いものは弾力性がないので、発酵するぶどう酒の勢いに負けて しまうからです。今まで通りの古い考え方、旧態然とした思考、律法的な固定的な生き方は、 改革されていくべきだと言われたのです。 モ−セの後継者はヨシュアでした。サウルの後はダビデが登場しました。このように神の国 も、新しい命と信仰者を必要としています。

「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは 行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に 道を敷き、砂漠に大河を流れさせる」(イザヤ43:18〜19)今は静かに主のみ前に黙し、主が なそうとしておられる新しいみ業を待ち望む時であります。共に祈りを合わせましょう。




2000年11月12日

「祝福と伝道」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。 だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)

昨主日は「召天者記念礼拝」でした。又、今朝は「幼児祝福式」を覚えての礼拝となります。  この二つの記念式を結び付けているのは「死と新しい命」というキ−ワ−ドではないでしょうか。 「召天」は死を意味します。確かに命あるものは必ず死にます。けれども、キリスト者にとっ て、死は悲しみにとどまらず、新しい命に至る希望へと連なります。正しく、死は天国へ の門なのです。また、死は新しい命を生み出す種子に似ています。生きたものは死を通過 して、新しい命に甦るのです。そして新しい命は幼子となって成長していきます。

私たちは幼子を見るごとに、心に喜びを感じます。それは彼らが神に生かされている命の 尊さを、体全体で精一杯で表現しているからです。みどり子は全存在をかけて神に頼ること のすばらしさを証ししています。彼らはもし、親から一瞬でも離れたなら、大変なことに なると本能的に知っているのです。そのひたむきな叫びと求めが、私たちの胸を打ちます。

もし私たちが、重い現実の中にあっても、幼子のようになって、神に叫び祈るならば、 神は、暗い死の影の谷にも伴い、正しい道へと導いて下さいます。私たちも、信仰の面で 幼子でありたいものです。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に 入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん 偉いのだ」(マタイ8:3〜4)とあります。自らの古い自我に別れを告げ、肉性に死んで幼子 のような信仰に生きたいものです。




2000年11月19日

栄光から栄光へ

牧師 犬塚 修

「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光か ら栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることで す。」(第二コリント3:18)

この「栄光」はあるがままの自分を愛する時に、初めて実感できるものです。 ゆえに自分を愛し、受け入れることが重要です。自分を喜ぶ事ができないと 自己卑下に落ち込んでいきます。それは危険な下り道です。現代人は自己卑 下に陥る傾向が強いようです。「今まで私は何のわざをしてこなかった。ゆえ に生きていく資格がない。もうすべてがいやになった。すべてから逃れたい。」 と自分を責め続けてしまうのです。

しかし、その人は決して怠け者ではありません。むしろ、真面目ですばらしい 人である場合が多いのです。だが、この考え方にはある種の危険性が潜んでい ます。それは、自分の価値を「行いや業績」で判断してしまっている事です。 私たちは自分は無力だと悩むのは、実はこの世の価値観に立っている事が多い からではないでしょうか。

むしろ私たちは、永遠の神のみ言葉に立つ事です。 主は私たちの行いの完全さでは裁かれません。むしろ、その辛い状況下でいか に耐えたか、ストレスに負けなかったか、厳しい緊張感、絶望的環境を乗り越え、 み言葉に生きようとしたかを評価されます。たとえ、十分にわざをなしとげ ることができなくても、私たちのすべてを省みて、深く慰めて下さいます。 私たちはわざではなく、信仰に生きるのです。それは栄光から栄光へと至る 道であります。主と共に生きることがすばらしい栄光の道なのです。




2000年11月26日

世界祈祷日礼拝を迎えて

牧師 犬塚 修

それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を 宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告 を受ける。マルコ16:15

先日は祈って準備してきましたランチョンを大きな恵みの内に終えることができま した。参加者は94名に達しました。本当にすばらしい恵みの一時でした。私たち が心を一つとして大きな目標をもって立ち向かうと、主はその祈りに応えて下さる ことを、今回深く教えられました。又、講師の佐々木弁護士の証しは実に適切なも のでした。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見 つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(マタイ7:7)というみ言葉を、 みごとに実践しておられることがヒシヒシと伝わってまいりました。私たちは、あら ためて主は生きて働かれることを実感できたのではないでしょうか。

さて、今週は世界祈祷日週間となります。私たちの全能の神は世界の歴史を動かし ておられます。故に、私たちも信仰の目を高く上げ、世界の動向を直視しなければ なりません。とりわけ、祈りに専念することが求められています。「はっきり言っ ておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少し も疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、 言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば 、そのとおりになる」(マルコ11:23〜24)

全世界に出て行くことは、到底私たちの 力だけでは不可能です。絶大な神の助けが必要なのです。そして、この無尽蔵の 力を引き出すのが祈りなのです。祈りに押し出される時、私たちは地の果てまで 主の証人となります。また、どんな試練も苦しみも克服し、すべてを感謝に変える生 き方ができるのです



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