巻頭言
1999年10月


1999年10月 3日

「へりくだって悔い改める教会」をめざして

牧師 犬塚 修

わたしは愛する者を叱ったり懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めよ。 (ヨハネの黙示録3:19)

私たちは人からほめられたり、高い評価を受けたりすると嬉しいものです。その意味では、 心からほめることは大切です。いつも叱られてばかりいると、私たちは不安になり精神的に パニックになります。人はほめられたり、愛されたり、尊敬されることで成長していくので す。

しかし、もう一面の真理があります。それは愛は時には厳しさが伴うということです。 雑草のような信仰の強さは、主の懲らしめから生まれます。 「わが子よ、主の鍛錬を軽んじ てはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する 者を鍛え子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。 あなたがたは、これを鍛錬と して忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から 鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それ こそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません」(ヘブライ12:5〜8)とあります。

神は私たちを深く愛しておられますので、時々試練を与えて、信仰の訓練をなされます。 私たちはその深い愛を気づかないと落ち込みます。実は人間関係でのいやな事、つまづきも 益です。その中で、私たちは「へりくだりと悔い改め」というすばらしい聖霊の実を結ぶか らです。だから熱心になって、悔い改めましょう。「悔いる」とは自分を責める事ですが、 「悔い改め」とは、生き方を変えるという意志的、霊的な行動です。最悪の時は、自分の 罪や弱さを知り、主の赦しを求める恵みの時です。




1999年10月10日

「許されている、許されていく、そして…」

牧師 犬塚 契

わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。 (ローマ5:9,口語訳)

〜被告に死刑判決。最近、死刑判決と、死刑執行が新聞でよく目に付く。 本当は自分の名前が〜被告の前にくるはずであった。死刑台に上るべきは私であった。 しかし、いざ執行となると臆病な私は、泣きじゃくり、恐くて足が震え、緊張で吐き気がしてしまうのでは ないかと思う。水子供養で罪は許されない、御払いで罪は許されない、お布施で罪は許されない、修行で罪 は許されない、部屋を掃除しても、きれいに着飾っても、体を強く洗っても罪は許されない。ただキリスト の十字架で流された血のみである。私の代わりに死刑台に行ったのはイエス・キリストであった。

彼は人 から好かれるタイプであった。友人も多くいるように見えた。そんな彼が意外にもこう言った。「辛い時、ア ルバムを広げて、僕が死んだら、誰が葬式で泣いてくれるか数えた事があるよ。」。生きている中で、誰一人、 自分なんか愛してくれない、わかってくれないと思う時ほど悲しい時はない。寝ようにも寝られない。鼻歌なん て出てこない。そんな絶望にくれた時、代わりに死刑台に上ったイエスキリストを思い出す。「だって、あなた を愛しているから…」と十字架に架かってくださったのである。

今月の教会テーマは「へりくだって悔い改める教会」 である。悔い改めていない事がないだろうか。いまだに死刑判決を受けているような顔をしていないだろうか。 聖書は、私たちを罪意識で苦しめるために書かれているのではない。ただ私たちが「キリストの十字架は、私の ためでした」と告白するために、書かれているのである。自分一人で生きているように思う時、誰からも愛され ないと思う時、罪の罠におちいった時、自分の心が嫉妬や怒りであふれている時、十字架に戻って行きたい。 そこに本当の許しが見え、愛が見える、そして今日も私たちは生きていくのである。




1999年10月17日

何物も恐れることなく

牧師 犬塚 修

こうして彼らは腰に粗布を巻き、首に縄をつけてイスラエルの王の前に出て、こう言った。 「あなたの僕であるベン・ハダドは、命を助けてほしいと願っております。」アハブは、 「王は生き延びておられたか。彼はわたしの兄弟である」と言った。 (第一列王20:32)

スリヤの王ベン・ハダドは実に傲慢な男で、イスラエルを徹底的に馬鹿にし、侮辱していました。 またイスラエルの王アハブはそんな王を深く恐れおののいていました。そして、この「敗北者意識」 が彼を不幸に導いたのです。

私たちの内に隠れている「劣等感や臆する霊」が主の血潮で清められる ことはいかに大切なことでしょうか。さて、イスラエルはこの王の圧迫によって、国の運命は風前の 灯火の状態でした。しかし、神は奇跡的にイスラエルを助けられました。その時、彼は自分の弱さを 主に告白し、新しく信仰の人として再出発できるチャンスの時でした。ところが、彼はこの恵みの時 を逃しました。彼は主に感謝を捧げず、尚も恐れの心を持ち続けたのです。アハブはこの悪の権化で ある愚劣な男に正当な罰を宣言すべきでした。ところが、何と彼を許してしまったのです!アハブは 古い蛇の息の根を絶つべき時を逃したのです。それからは彼は苦しみを受けます。

私たちはノ−をノ −と言うべき時に言わないと後で、苦しむのです。なぜ言えないのか。それは恐れのゆえです。そし てこの恐れは主に対する不信仰から生まれるのです。もし、アハブが本気で神に頼っていたならば…。 悪魔は私たちを脅し、自信を失わせます。「お前の無力だ」とささやきます。悪魔は実に狡猾です。

私た ちは欺かれてはなりません。大胆に堅く信仰に立つ事です




1999年10月24日

羊として生きる

牧師 犬塚 契

わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。(マタイ10:16)

足の引っ張り合い、見栄の張り合い、裁き合い、なじり合い、奪い合い、 殺し合い。こんなニュースばかりだ。協力したかと思えば、それは闇の 談合だったりする。新聞だけではない、わたしたちの実生活もそういった 世界に囲まれている。小、中、高、大学、職場、会社、地域社会で狼に 囲まれて生きている。さらに強い狼になって生きていかなければならない のか。答えは否である。

イエス様は、心配だったにちがいない。すぐにでも、 狼に食い殺されてしまうような羊を送り出すことに…。それでも、あえて 「羊」として送り出されたのである。ここに、なぐさめがある。

強い狼に なれとイエス様は言わなかった。目がよく見えない「羊」、羊飼いがいなければ安全に 生きていくことなどできない動物である。それでも、「羊」なのだ。狼になって 世の中、渡って行こうとする人は多い。強い狼になりたいと思う欲望も強い。 もっと力があれば、お金があれば、背が高ければ、美しければ、雄弁なら、 才能があれば…と誰だって願う。しかし、イエスさまは「羊」として生きなさい というのである。神に聞く存在として生きていきなさいと。

「これからの時代のクリスチャン指導者は、まったく力なき者として、つまり この世にあって、弱く傷つきやすい自分以外、何も差し出すものがないものに なるように召されている。」(ヘンリーナーウェン著、「イエスの御名で」)足りなさ、 弱さ、傷つきやすさ、そういったもの全てを克服して立って行くなら、途方に くれる。しかし、羊として立たせてくださる神の手の中で、私たちは今日も あわれみの道のりを生かされていくのである。




1999年10月31日

悔い改めの道を求めて

牧師 犬塚 修

「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。 そうすれば、賜物として聖霊を受けます」 (使徒言行録2:38)

「一灯を提げて暗夜を行く。暗夜を憂えること勿れ。ただ一灯を頼め」
これは幕末の儒者佐藤一斎の言葉です。

私たちはどうしても、暗夜ばかりが気になって仕方がないことがあります。そして、重い現実に直面して 失望、落胆してしまうのです。時には生きるための信仰の力さえも失われたように感じることもあります。 しかし、私たちがしっかりと見つめるべきは「一灯」です。即ちイエス様だけです。

「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を」(イザヤ42:1)イスラエル人もまた、 暗夜だけを見つめたのではないでしょうか。彼らの心はロ−マの圧政に苦しみ、怒りと不満が渦巻いていたの です。そして、神の子イエス様の到来という歴史的事実を悟ることなく、ただ自分の力によって、運命を切り 開こうとしたのです。その結果、エルサレムの都は悲しい結末に至ったのです。

私たちはイエス様を見上げる時に輝くのです。しかし、主から目をそらしてしまうと力は失せ去ります。 そして自力で何かに成功するとすぐに傲慢になります。またいやなことがあると、意気消沈してしまいます。 しかし、そんなどうしようもない罪人の私たちのためにイエス様は死んで下さいました。その愛を信じて、 バプテスマを受けることが主に喜ばれる道です。

主に救われると、私たちは暗夜ではなく、光の支配を確信するようになります。悔い改めとは自分のこれまで の生き方を悔い改め、新しい人生を生きることです。180度生き方が変る事です。暗く否定的に将来を考え ていた自分が、むしろ、明るく肯定的にとらえることができるようになります。なぜならば、私たちは聖霊の 賜物を受けることができるからです。



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