巻頭言
1998年10月


1998年10月 4日

「礼拝と伝道」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。(ペトロ一3:15,16)

昨主日の「伝道研修会」におきまして、お一人お一人に「3分間証詞」をしてもらいました。 30名以上の参加者でしたので80分以上の時間がかかりましたが大変恵まれました。私自身 感じたことは二つありました。

一つは、証詞をしておられる時、その表情がキラキラ輝いて見えた点です。私たちが最も 素晴らしく光っている時は、キリストを主とあがめ、福音を力強く弁明している時である気 がします。

第二は、お一人お一人が、生涯を変えたみ言を握っておられた点でした。これも素晴らしい ことです。「夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くと もし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。」(ペトロ二1:19) 「草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」 (ペトロ一1:24,25)とあります。

私たちが主を証し、伝道する時、大切な霊的武器は、み言なのです。また、同時に 「穏やかさ」と「正しい聖書知識」です。この世は、いよいよ混迷の度を深め、 正しく「迷走地図」の感がします。この暗黒の時代に、真の希望と歓喜を与え得るのは イエス・キリスト以外にありません。このお方を大胆に宣べ伝えていくとき、世界は 新しい祝福の世紀を迎えていくのであります。



1998年10月11日

境遇に満足して生きる

牧師 犬塚 修

わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、 豊かに暮らすすべも知っています。…わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはす べてが可能です。 (フィリピ4:11〜13)

自分の置かれた境遇に満足することができないと、生き方が逃避的、消極的になってし まいます。そして、いつも空しい夢ばかり追い求めて、心が現実から遠ざかっていき、 不健康な生活になります。

パウロは、大地にしっかりと根を張った力強い人生を生きぬ いた人でした。彼の驚くべき力の秘訣は、どんな境遇においても、満足と感謝を主に捧 げたからでした。彼は「置かれた」境遇と、断定しています。つまり、主が私にここで 「生きよ!」と命令されたのだから、「たとえ、どんなに辛いことがあっても、忍耐と希望 で歩む」と言っているのです。

しかし、この確信は始めから彼の中にあったのではありま せん。「習い覚えた」とあったように、彼も人生の辛苦を味わう中で、次第に主のみ心を 悟っていったのです。彼のいう「貧しさ」とは、生活上のことだけでなく、精神的な面も 含んでいたと考えられます。何かのことで、心が落ち込んでしまう時でも「主は私を強く してくださる」と信じて、立ち上がったのです。 「恐れることはない。愛されている者よ。 平和を取り戻し、しっかりしなさい。」(ダニエル10:19) とあります。

今、ここを愛し、 受け入れて、瞬間瞬間を感謝して生きる人は幸いです。そのような人は、将来に対して も、思い煩うことなく、一切を主に委ねることができるのです。「今は恵みのとき、救 いの日」なのです。



1998年10月18日

信仰に生きる

牧師 犬塚 修

口でイエスは主であると公に言い表し。心で神がイエスを死者の中から復活させられ たと信じるなら、あなたは救われるからです。 (ローマ10:9)

「純信仰は信仰の中にある。結果を見ることなく、結果を待つことなく、信ずべきを信 じ、これを信じて充ち足れること、その事が真の信仰である。」(内村鑑三信仰著作全 集16. 54頁)

私たちは、自分の行いを見つめ、また、行いの結果を考えてしまいますと、 落胆と懐疑の穴に落ち込んでしまいます。なぜなら、そこには、鏡で写る自分は汚れて見 えたり、また、すぐすぐ良い結果を求めがちだからです。私たちはありのままで良いの です。

「罪のこのまま、彼に至りて、彼に聖められるのである。…イエスをわが義、わが 聖と認めし以上は、自省はわれに無用である。われは、神の恩恵を確かめんために、わ がへそを見つむ必要はさらにないのである。上をむいて、十字架上のイエスを仰ぐべき である。下を見て、自己を探るべきではない。」(同58頁)とあります。もし、行いと結 果を気にし始めますと、心は不安と悲しみ、後悔等の思いが忍び寄ってきます。そして、 「こんな自分ではだめた。もっと努力すべきだ」と敗北感と焦燥感のとりこになるのです。

しかし、主は私たちの罪、失敗のために、自ら完全な供え物となってくださったのです。 主を信じる人は、行いがどんなに未熟であっても、赦され深く愛されているのです。故 に、私たちの道は自分の内面や行い、その結果を見つめず、ただ主の十字架を仰ぎ、そ こにあふれる主の愛への感謝と讃美に生きることであります。



1998年10月25日

いつの日か

牧師 犬塚 修

口神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたた ちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。』(使徒言行録2:17)

「私には夢がある。いつの日か、ジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の息子 たちと、かつての奴隷所有者の息子たちとが、兄弟のように仲良く一緒のテーブルに すわるときがくることを。…私には夢がある。いつの日か、私の四人の子どもたちが、 皮膚の色によってではなく、人格の深さによって評価される国に生きる時がくること を。…私には夢がある。いつの日か、この希望の丘にアジア、アメリカ、ヨーロッパか らもその皮膚の色を超えて夢を抱く青年たちが続々と集い、その出会いの中で、それぞ れの言葉を研究し、文化を誇り、新しい創造の唸りが世界の隅々までも発信されること を。」

これは1963年8月28日、アメリカのワシントン市にて、25万人の群衆に向かって 語った故マルチン・ルーサー・キング牧師の説教です。今尚、私たちの心の琴線を震わ す霊的感動を与えてくれる迫力に満ちています。

私たちを動かす力とは一体何でしょうか。それは夢です。壮大な夢を持ち、語ること であります。キング牧師の夢は未だ叶えられていないかも知れません。しかし、すべて の川が大海をめざして下るように、主を信じることから生まれた夢は現実へと向かって いるのです。主に祈った願望、また、夢は「いつの日」にか成就していくのです。

故に、大胆に主を信じようではありませんか。主を心の中に受け入れ、いい気な人生の 夢をつかもうではありませんか。

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