巻頭言
2023年10月


2023年10月1日

「バベルの塔」

根塚 幸雄神学生

彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。 <創世記11章1-9節>

 シンアルの人たちが建てようとした塔の目的は何か。一つは有名になること。もう一つは、全地に散らされないようにすることでした。彼らは、天まで届くような塔を建て、天にいる神さまと戦って、打ち勝って、散らされないようにしようと計画していたのではないかと思われます。神さまは「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と広がっていくことを祝福していましたが、シンアルの人たちは神さまを信頼できずに、散らし広がることが祝福とは思えなかったのではないでしょうか。神さまは、彼らの言葉を混乱させて、意思疎通ができないようにしたので塔の建設を途中でやめて散らされました。散らし広がることが神さまの祝福だったからです。神さまを信頼して聴くか聴かないかによって、神さまが言うことが自分にとって良いことでも悪いことのようにととらえてしまう。言葉もコミュニケーション、交わりのため大切だが、お互いを励ましたり、良い意味での交流もできれば、傷つけることもできるし、悪だくみも一緒に相談できる。神さまを信頼して聴くことと、言葉を大切に使うことをおしえられているように思われます。また、この箇所は、何かをする時に何のためにするかの大切さも教えているように思います。マタイによる福音書に一番大事な戒めがありますね。一番目が、神さまを愛すること、二番目が自分のように隣人を愛すること。これと同じように重要であるとあります。私たちは神さまのかたちに作られているので、本来、愛することができる。でも神さまから離れているとそのかたち通りのことができない。だから、私たちは神さまに近づいて、心を開いて神さまからいただけるものをいただいて、自分の力で愛するのではなく、自然に愛するものにさせていただくのが良いのではないかと思います。「神さまを信頼して言葉を聴くこと」と「言葉の大切さをわきまえること」と「わたしたちが何かをする時の目的をよく考えておこなう」この三つのことがこの箇所から教えられたように思います。皆さんはこの箇所からどんなことを示されたでしょうか。これからも神さまを信頼してみ言葉に心の耳を傾けていきましょう。



2023年10月8日

「食いつくされたぶどう畑」

犬塚 契牧師

主は裁きに臨まれる/民の長老、支配者らに対して。「お前たちはわたしのぶどう畑を食い尽くし、貧しい者から奪って家を満たした。何故、お前たちはわたしの民を打ち砕き、貧しい者の顔を臼でひきつぶしたのか」と、主なる万軍の神は言われる。     <イザヤ書3章12-15節> 

 2700年も前は、この辺りはまだ歴史が始まっていなかったでしょう。古い話に思えます。イザヤという預言者は神の心を知らされて、国を憂いています。ただひとり言を語っていたということでもなく、イザヤの言葉に共鳴し、覚え、伝え、残していった人々もいたということなのでしょう。小国イスラエルは、完全な言論弾圧を加えることのできるほどには力をもっていなかったようです。ある程度、自由に預言者は語りました。繁栄を始めた国には、両極が生まれ、その距離は深刻に広がっていきます。一方が権益を維持しようと思えば、忖度も不正義もまかり通っていきます。弱者は虐げられ、強者は肥えていきます。誰かを犠牲にして成り立つ、豊かさとはとても曲者です。3章はイザヤの裁きのメッセージが響きます。ところどころ「わたしの民」という神が一人称で語り掛けていきます。イザヤが主語となり、神が主語となるので読み方がなかなか難しく感じます。分かるのは、神の怒りです。そして、怒りの理由は、祭儀の滞りや聖所のないがしろが挙げられているのではなく、貧しい者が奪われ続けていることのようです。人々の日常が問われます。その延長にイザヤは亡国を見ました。実際に歴史はそう動いていきました。着飾る人々の後ろに、すでに終わりがありました。しかし、その終わりは先もまた示していました。



2023年10月15日

「神の悲しみ」

犬塚 修牧師

わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに/なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。  <イザヤ書5章1?6節> 

 神は私たちを深く愛し、最善の道へと導こうとされる。その愛は真実で、裏切る事は絶対にない。しかし、人間の神への応答は、不誠実である。ゆえに神の悲しみは非常に深い。ここに出てくる「ブドウ園」は、ユダ王国の事である。ユダの生きる道は、神に従う事にあったが、それを拒み、世俗の思想に取り込まれた。そして、自国は無力であり、貧しいと嘆いた。彼らは目に見える現実だけに目を留め、信仰を失い、奴隷根性の民となった。神の絶大な力を今一度、確信する事が肝要である。神の愛を二つの点で考えたい。▲(1)無から有の歩みの中で…アブラハムは老齢にして、愛息イサクを授かった。それは、死んだような者から、新しい命を呼び起こされる神の偉大なみ業であった。たとえ、自分が無のような存在であっても、神は驚くべき出来事を起こし、そのご計画を実現される。その約束のゆえに、心から神を賛美しよう。▼(2)有から無の歩みの中で…しかし、イサクが少年に成長した時、神はアブラハムに「その子を捧げよ」と命じられた。それは、恐ろしい瞬間であった。心の中に嵐が荒れ狂い、絶望と混乱の渦に追いやられたであろう。けれども、彼は黙々と信仰を抱いて神に従った。それは、神はイサクを復活させて下さると信じたからである。(ヘブライ書11章)事実、その通りになった。すべてが無に帰するように見える中であっても、神による復活があると確信して生きる人は幸いである。私たちが、この復活信仰に立つ時、永遠の命を見、信仰の核心に達するのである。



2023年10月22日

「ミシュパトとツェダカ」

犬塚 契牧師

イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑/主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに/見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに/見よ、叫喚(ツェアカ)。 <イザヤ書5章7-10節>    

 「よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。…しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった」そんな神の嘆きから始まった5章は、厳しさを増して裁きのメッセージとなっていきます。「わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず…」。かつてエジプトで奴隷であった民が神から助け出されました。ならば、新しい国は奴隷を生み出さないはずでした。しかし、期待は裏切られ、持つものはさらに欲し、持たざるものは持っているものまで取り上げられるような様相がありました。「災いだ、家に家を連ね、畑に畑を加える者は。お前たちは余地を残さぬまでに/この地を独り占めにしている」。▲上記聖書箇所。ミシュパト(裁き・公正)とツェダカ(正義)は、聖書にたびたび登場する言葉でした。それが流血(ミスパハ)と叫喚(ツェアカ)になってしまったと言われています。わずかばかりの言葉の違いであり、ダジャレ、言葉遊び、語呂合わせですが、意味は真逆です。それまでの厳しすぎた裁きの言葉に、いささかの“おやじギャグ”を交ぜて、空気の緩和を狙ったわけではないでしょう。しかし、何故ここで語呂合わせ?▲言葉をあげることすら奪われ、武器を取ることを強いられ、人の数に入らず、本当に苦しんでいる人たち…そんな人たちからしたら、世にはミシュパトもツェダカもないと結論付けざるを得ないかもしれません。しかし、絶望は罪だと聞きました。流血と叫喚の現実を超えるような、公正と正義をお持ちの神を信じるのは当たり前のことではありません。抗う希望です。



2023年10月29日

「奇跡体験アンビリバボーの中で最も信じ難いもの―わたしの主、わたしの神よ」

犬塚 契牧師

それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。     <ヨハネによる福音書20章24‐29節>

 もう意志の疎通はできないと聞いていたおじいちゃんが、訪ねてみると思いのほか元気で、信仰を勧めると受け入れ、洗礼を授けると前の晩に見た夢と一緒だと語りはじめました。奇跡でした。青年の結婚式の当日に一人アパートで亡くなっているのが見つかったAさんは、偶然残された一年前の通話記録に儀費用の蓄えがあること、結婚式は準備できるが葬儀は突然だから牧師は大変だと語っていました。奇跡でした。ともに暮らしたSさんは、行先も伝えずに死に場所を求めて出かけていましたが、広い広い海辺で無事に会うことができました。奇跡でした。…思い出せば、奇跡体験があるものですし、起こるものかも知れません。そんな中で、最も信じがたいことは、トマスと同じです。▲ディディモ(ふたご)と呼ばれるトマスの兄弟は、聖書に登場しません。現代とは違います。同じ顔の子が生まれるのが怖がられた時代もありました。二人が存分に育つ栄養事情になく、遠くにやられた、死んでしまったか…。その故か、聖書のトマスの言動は破滅的で孤独です。復活の時も彼だけ別行動で、そのニュースに触れていませんでした。のけ者になったようなトマスがいます。トマスが疑ったのは、復活か自分の存在か…。そこに傷をもったままの主イエスが現れます。もっとも信じがたいことは、神のまなざしに一人があることです。




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