巻頭言
2021年10月


2021年10月3日

「真の神殿の幻」

犬塚 契牧師

わたしが見た幻は、このような幻であった。それは彼が町を滅ぼすために来たとき、わたしが見た幻と同じであった。その幻は、わたしがケバル川の河畔で見た幻と同じであった。わたしはひれ伏した。主の栄光は、東の方に向いている門から神殿の中に入った。霊はわたしを引き上げ、内庭に導いた。見よ、主の栄光が神殿を満たしていた。  <エゼキエル書43章>

2019年4月にノートルダム大聖堂が消失するのを愕然と見つめる人々がテレビに映されていました。崩れそうなその顔から、建造物だけではないものが、失われていくのが分かりました。その半年後に那覇市の首里城も火災に見舞われました。朱色に塗られた歓迎の城が、赤く燃え、黒く残されていきました。近隣の学校の子どもたちは、精神的に不安定になり遅刻、欠席が相次いだと聞きました。きっとそうでしょう。旅行で尋ねた私もショックでした。▲イスラエルの民が国を奪われ、人がいなくなり、神殿を失った時は、どんな困難だったのかを想像します。それでも、エゼキエル書は、40章以降は新しい神殿の幻が語られていきます。失われた神の栄光は、再び戻ってきました。それは、神がまた共におられることを意味し、歓喜の預言でありました。しかし、不思議なことに捕囚以降、この場所にも神殿に納めてあった十戒の石板・契約の箱が見つからないのです。主の栄光が神殿に満ちながら、その箱までは届かないのです。今もその行方は知れていません。神の栄光に照らされた神殿に、なお影が残っています。▲600年後、イエスの体もまた墓にありませんでした。あれば大切にとっておきたかったのに、空っぽの墓の前でマリアは泣き崩れています。ヨハネ福音書20章「天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。」▲見つけきれぬ暗がりで不安を覚えています。契約の箱の行方は知れず、主イエスの体も見つかりません。圧倒的、空しさが心を占めていきます。ただ、そこにこそ響いてくる主の言葉があるようのです。エゼキエル書は、「主がそこにおられる」で終わり、新約聖書は、「神、我らと共におられる」と始まります。



2021年10月10日

「わたしの贖い主よ」

犬塚 契牧師

天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。…話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくてもその響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。…どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない、心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。           <詩編19編>

 詩人は、大地に立ち、空を見上げて魅せられています。満天の星も紺碧の空も創造主の想いを伝えているようです。「昼は昼に語り伝え…」空間だけでなく、時間もまた神の創造の業にありました。伝え聞いてきた先人たちの歴史も思い起こされます。あぁ、なんと素晴らしい…。しかし、そんな圧倒的な存在の認識は、「声は聞こえな」いのです。どこまでも無音、沈黙の世界…。しかし、不思議です。それでも「その響きは全地に」及ぶのです。▲大学生だった青年から「聖書の神が本物なら、みんなが納得するはずではないか」と迫られたことを思い出します。美味いものは、美味いので流行るし、美しい音楽は皆で立って拍手をする。しかし、キリスト教…なぜ信じる者、信じない者がいるのか。そういう問いだったと思います。求めの強い良い青年でした。「声は聞こえなくても」と3000年前の詩人の感嘆は、一つの答えになりはしないだろうかと思っています。「みんなに理解してもらえるかは分からないけれど、私にとっては十分だったのです」。そう語った牧師の言葉も合わせて思い起こしています。蚊が飛ぶ音もショベルカーが掘る音も聞こえるのに、雲が、星が、月が、太陽が、地球が、この壮大が動く音が無音であり、沈黙であるとは、人に聞く耳がないだけかも知れないのです。しかし、詩人は響きを聞き取っています。神は太陽にテントを授けました。隣国で神であった太陽もまた被造物でした。19編は、「神」から「主」と呼びかけ方が変わっていきます。もともと二つだった歌を合わせたか、親しみ近くいだいたかのどちらかでしょう。大切なことは、「天は神の栄光を物語」と始まって大地讃頌で陶酔して終わることなく、詩人は自分自身が何者なのかを見つめていったことです。「主よ、私の岩、わたしの贖い主よ」と終わる19編に神に愛され、神を愛した人の姿を見つけます。



2021年10月17日

「いつもわたしを」

犬塚 契牧師

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。…命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。  <詩編23編>

 「自分を動物に例えると何になりますか?」ちょっとしたゲームの司会進行で問うたら、「人間なのに動物に例えるのは不愉快だ」と言われて続けるのに困ったことがあります。しかし、一国の王にまでなった人物が、「私は羊です」と語り始めた詩編23章がありました。旧約聖書で最も暗唱された言葉だと思います。かつて牧童であったダビデは、羊の特徴を知っていたはずです。病気にかかりやすく、ストレスに弱く、臆病で、自分勝手でありながら、方向音痴。視力が弱く、近くしか見えず、太りすぎると転んで立つこともままならない。武器となるような角も爪もなく、逃げ切る足もない…。ところが、彼は迷わず主を「羊飼い」と呼びかけ、「あー、私は羊だ」と語るのです。「サウルは千人、ダビデは万人」と言われた名将の自己認識でした。わずか6節の短い詩は、12回の「わたし」を登場させ、「わたしとあなた」との歩みを振り返っています。波乱の生涯が、他の書に残されていますが、名声、立場、家族、息子、関係、家臣、信頼…およそ失えるようなものすべてを失ったように思えます。それでも歌います。「わたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い…」。アルプスの少女ハイジの世界、初夏の北海道の牧場のイメージが浮かびますが、パレスチナの荒地には大草原も湧き出る名水もありません。青草も憩いの水も、羊飼いが命懸けで探したものなのでしょう。「これで足りるか、十分か?まだ飲みたいか。また探してくるよ」そう呼びかける羊飼いの心労を羊は知っているのです。飲み放題、食べ放題のバイキングを連れて行ってくれた思い出ではありません。「あなた」と呼びかけた羊飼いの御想いに信頼しているのです。だから、「満腹にしてくださる」ではなく、「魂を生き返らせてくださる」という言葉が出てきます。過酷な自然、険しい道、獰猛な獣の危険にさらされるような「死の陰の谷を行くときも」、誰が共にいてくださるのかを知るがゆえに恐れがないというのです。一切は、「主は御名にふさわしく」あるがゆえです。それは神の名、本質、神が神であるゆえです。羊の素行や従順を根拠にしての信頼でないようです。「生じさせる神」「あらしめる神」ゆえです。▲数千年も前の詩人の神への信頼を読むと、自分自身がとても大きな勘違いをしているのだと思えます。彼は、はるかに澄まされた心をもって、恵みといつくしみが追うのを受け止めています。私も静まってみます。



2021年10月24日

「すべては主のもの」

犬塚 契牧師

 【ダビデの詩。賛歌。】地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のもの。主は大海の上に地の基を置き、潮の流れの上に世界を築かれた。どのような人が、主の山に上り、聖所に立つことができるのか。…〔セラ 城門よ、頭を上げよ、とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。 <詩編24編>

 「世界とそこに住むものは、主のもの」と歌ったこの詩人は、資源を巡っての政治的駆け引きや解決の糸口も見当たらない領土問題などとは、無縁の世界に生きていた人なのだろうと思えば、なんとイスラエルの王となったダビデの賛歌でした。世界は、エジプトのものでも、アッシリアのものでも、ましてイスラエルのものでもなく、「主のもの」と語り始めます。主の創造の業とは、雄大な大自然を眺めてのことだけでなく、「そこに住むもの」も含めての俯瞰的視点でした。そこには、良きも悪しきも入り混じっています。好みも苦手もあります。彼自身は、かつて妬みにかられたサウル王から命を狙われたことがあります。サムエル記上24章には、サウル王が用を足す無防備な場面での振舞のことが書かれていました。従ってきたものが千載一隅だと進言する中で、ダビデは服の裾を切り取っただけであり、それすらも後悔していました。「主が油を注がれた方に、わたしが手をかけ、このようなことをするのを…」そう漏らしています。「すべては主のもの」との告白は、実に本気であったようです。ただの俯瞰でも達観でも悟りでもなく、彼の知り得た知恵の結晶でした。そんな主へ礼拝をささげることができるのは誰なのかと詩は続きます。「どのような人が、主の山に上り、聖所に立つことができるのか」(3節)▲書かれていることを読めば、言行一致の信仰姿勢と見えぬところの魂の動き…ふさわしいのはそんな礼拝者たちでした。礼拝者たる者の「資格」の後に、聖書朗読では読まれない奇妙な言葉が記載されています。【〔セラ〕です。これは、どうやら間奏を意味したようで、人々はこの間に自己吟味をしたのでしょう。ならば、ならばと試みてみると、とてもほど遠くに思えてしまうのです。私にとっては、6節と7節の間、「間奏」には、「絶望」が横たわってしまいます。しかし、うろたえ構わず、遠慮なく城門は開き、戸が開く音がします。「城門よ、頭を上げよ/とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。」繰り返される歓喜の歌に、登場する栄光の主とは、十字架にかかりゆくロバに乗ってエルサレムに入場された主イエスキリストのことと読みました。とうとう見つめさせられた絶望は、主イエスによって贖われ得るのです。▲へブラ人への手紙の記者は、4章の後半にこう書きました。「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、…だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」



2021年10月31日

「豊かな平和に」

犬塚 契牧師

 【ソロモンの詩。】神よ、あなたによる裁きを、王に、あなたによる恵みの御業を、王の子に、お授けください。…この地には、一面に麦が育ち、山々の頂にまで波打ち、その実りはレバノンのように豊かで、町には人が地の青草ほどにも茂りますように。…エッサイの子ダビデの祈りの終り。 詩編72編

 「ソロモンの詩」から始まって、「ダビデの祈りの終わり」で閉じられるので、一体本当の詩人は誰かと言われるような72編。父ダビデが祈り、子ソロモンが聞き覚え、心を合わせて書き残した詩という理解でどうでしょう。残されている施政方針は、貧しい人々、乏しい人々、弱いいのちへの配慮が前面に出されたものでした。当然、富裕層の優遇措置も既得利権の保証も○○ムラの継続も歌われてはいません。王が願うことは、隅々に届く公正な裁きでした。そんな国をモデルにすべく、タルシシュ、シェバ、セバなどの近隣諸国から王たちが貢物をもって、学びにきます。そして、そのビジョンは世界を覆うのです。書かれているのは、神、人、自然の見事な調和でした。父が願い、子が心合わせた美しい72編と読みましょう。総選挙の投票前に読めて、ため息が出る思いでした。▲そこまで加味して読んでよいのか迷いますが…。この後、ソロモンは神様のために見事な神殿を建てます。父ダビデの悲願を果たすのです。しかし、その倍の大きさの宮殿を自分のために建てていきます。そして、ソロモンの死後、国は早くも二つに割れていくのです。権力を持つ者が晒される誘惑の強さと翻弄される人々の苦悩を思っています。それは、今もって連綿と繰り返される歴史です。美しい施政演説のハーモニーを聞きながら、「市民」は何を大切にして生きるべきなのかを思っています。「この世界の片隅で」という戦中の広島を舞台にした映画が配給元の予想を超えてヒットしました。肉が裂け、血が噴き出る戦闘場面や非道な原爆被害の描写でなく、壊された生活の片隅を静かに描いていました。きっと社会情勢の翻弄のある時に、大切にすべきは生活の片隅なのだと思っています。はかなさをまとったそんな片隅を目をかけ、やさしく扱い、大切に思うことが必要なのでしょう。▲ある本の中で、クリスチャン・ジャーナリストが強制収容所の生き残りであった牧師に問いかけていました。奇跡的に自由になった時に受けた「世界最大の悪と戦う」という召命は、今、中流階級の話相手に変わってしまっているが、それでよいのかと。牧師は答えるのです。「もし、ヒトラーがまだ若くて多感なころ、混乱した心でウィーンをさまよっていたとき、だれか人のこころがわかる成熟した人間がいて、彼の友人になっていたとしたら、いったいどういうことが起こっただろう、とね。世界はあのダッハウのような惨事を免れていたかもしれない。いまきみのいる椅子にどんな人物がすわるか、わたしは決して知りえないのだ。…“取るに足りない人”などは存在しない。人のうちに宿る『神のかたち』とは何か、わたしはあの日、ダッハウで学んだのだ」。(深夜の教会)




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