巻頭言
2020年10月


2020年10月4日

「神は怒り、思い直された」

小勝 琢生神学生

それで、主はその民に下すと言われた災について思い直された。 <出エジプト記32章14節>

イスラエルの民は救い出されたにも関わらず、試練に遭うと『何でこんな目に?エジプトの奴隷の方がましだった』と神を詰(なじ)り、互いに争い、盗み合い、偽証し合う民だった。しかし彼らはエジプトから長期間虐待され、同胞をも信じられない程にボロボロだった。神はこれからもある試練に耐えられる様にと『わたしの他に神があってはならない。如何なる偶像も造ってはならない・・・』と民に直接語りかけ戒めを授けた。民は神の戒めをすべて守り行う事を約束し、ここに血の契約が結ばれた(24:3-7)。神は祭儀規定を40日40夜かけてモーセに伝えた。しかし民はモーセの帰りをお待ちきれず、アロンに『先立って進む神々を造ってくれ』と迫り、アロンは彼らが身に付けていた金の耳輪を集めさせ金の子牛を造ってしまった。金の耳輪は神の配慮による物だった(3:22、11:3、12:36)。神の怒りの要因は、彼らがエジプトの奴隷状態を懐かしがり、約束を破り、他の神々を求め、偶像を求めた事。アロンが神からの贈り物の金で子牛を造り、偽りの祭壇を作り、主の祭りと宣言した事。ひれ伏し、偽りの生贄を二種も捧げ、それぞれ勝手な方向を向いて昂った事。しかも神が真の祭儀を伝授している最中だった事。神は『彼らを滅ぼし尽し、代わりにモーセを大いなる民とする』と言う。神はすべてをやり直す事が出来た。第二の『ノアの箱舟!』。モーセはノア以上に誠実で謙虚だった。仲間の為に神を詰(なじ)ってまで必死に執り成した。神は彼らが、気力も萎え何も信じられなくなっていた民である事を憐れみ、創8:21によって怒りつつ災いを踏み止まった。わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている・・・それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えると思い直された(エレミヤ29:11) 。神は我々に神の愛を気付かせ、人間が本来持っている優しさを掘り起こし、自分中心の愚かさに気付かせる『道』奴隷ではなく真の自由を得させる『道』。滅ぼし尽すよりも遥かに困難な『道』をお選び下になった。イエスによって誠の愛を示して下さり、イエスを犠牲にしてまで我々の目を開かせて下さった。全ての人の目が開かれるまで神の怒りは続いている。モーセの様に私達も救われていない人の救いを神に執り成し祈りましょう。必死に。主はいつも私達と共に居ます。(マタイ28:20)



2020年10月11日

「なんだか空しさが増しますが」

犬塚 契牧師

コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。 太陽の下、人は労苦するが/すべての労苦も何になろう。  <コヘレトの言葉1章2−3節>

 ダビデの子、エルサレムの王であったと名乗るところから始まるものだから、著者はソロモンであろうと理解された時期がありましたが、今は知恵者ソロモンの名を借りた「コヘレト」(集める人・集会の主催者)の言葉であろうと。聖書の中にあって、その意外な語りは、厭世主義者、虚無主義者、異端、反面教師など言われながら、不思議と人気があり、好きな聖書個所に上げる方も少なくありません。▲1章をゆっくり読むならば、誰もが指摘するように、日本の古典のいくつかに似た趣きを感じもします。「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」(方丈記 鴨長明)とめどなく流れる川の水、よどみに出来ては弾ける泡沫のような人のあり様。そんなもの、そんなもの。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり…たけきものも遂には滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」(平家物語)アレクサンドロス大王もアウグストスも源氏も平家も信長の秀吉も徳川もそして現代に至るまで…どんな強者が登場したところで、「たけきものも遂には」と700年前には、気が付いて記されていたのです。いや、そんなにさかのぼらなくても、遊びに来る小学生に言わせれば、「将来の夢?ずっと家にいて、インターネットで買い物して暮らす。お金無くなったら銀行強盗する」。なんという、なんという…。だか、そんなもの、そんなもの。▲そう、そんなものの世界であったのに、どういうわけか広大な宇宙の中で小さな星で生きる者たちが神の目に留まったのだと。果てなく繰り返す意味なき空しさ世界は、神の愛してやまない世界であったと。新約聖書の1ページの系図。知られぬ人まで登場する興亡の最後、神は、その御子を遣わします。「…エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。」マタイ1章。神はわれわれとともにおられると知るのです。



2020年10月18日

「どうやら時がありそうで」

犬塚 契牧師

何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。…石を放つ時、石を集める時、抱擁の時、抱擁を遠ざける時…人が労苦してみたところで何になろう。           <コヘレトの言葉3章1−9節>

 神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。<伝道の書 3章11節>  「〜時がある。〜時。〜時。」と続くコヘレト3章は、聖書の中でも有名な個所で、特に「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(11節口語)を愛唱聖句とされている方も多いと思います。時を振り返った言葉の選び方で、読み手がどこを生きて来たか分かるかも知れません。遠足も運動会も家族旅行も「時」の中に数えられていません。生まれ、死に、植え、抜き、破壊され、建て上げ…。そんな言葉続きます。当時は、平均年齢は30代ではなかったと読みました。今よりずっと人の生死が身近でした。彼には植えたことも抜いた経験もあります。また、石を投げ、また拾いもしました。それは、少年時代の水切りの思い出でなく、戦争での投石の記憶です。終戦後、拾い上げて日常を取り戻したのです。また衣を悲しみのあまり裂いたこともあります。様々な出来事が胸の内に去来し、現代であまりチョイスしない言葉が対となって14つ続きます。そして、それらを総括するように9節を語ります。「人が労苦してみたところで何になろう。」極めつけの言葉は強烈で、寅さんが聞いたら「それを言っちゃあおしめえよ」と嘆きそうな一言でした。しかし、コヘレトはそれらを神のまなざしに置くのです。「神は」と登場させ、散りばめられた出来事のパッチワークをひっくり返して、模様がいよいよ明らかになりました。そして、改めて見るならば、「皆その時にかなって美しい」との告白に変貌を遂げるのです。かつての刹那は、特別な束の間と変わりました。時に意味が生まれ、意義が湧きます。「それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」そう、その通り。でも、もうそれでもよいのではないかと思うような時の数えを知るのです。



2020年10月25日

「心わずかに開きつつ」

犬塚 契牧師

 わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。見よ、虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない。見よ、虐げる者の手にある力を。彼らを慰める者はない。既に死んだ人を、幸いだと言おう。更に生きて行かなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから。     <コヘレトの言葉 4章1−16節>

 コヘレトの4章の語り口は、いつにも増して低く聞こえます。彼自身は、時に王を名乗れるほどに知恵もあり、賢い試みを遂行できる力もあり、愚かさを試す財力や諸々があったのだと思いますが、その視座は底辺に置かれているようです。1節で、太陽の下にある虐げのすべてを見たと言います。とても難しいことだと思います。大抵、担いきれず、目を背け、無視して蓋をします。自虐的だとなかったことにすることもあるでしょう。彼は見つめて、虐げる者、虐げられる者…その両者に慰めが必要なのだと語ります。こんな視点を2千数百年経た現代に見つけられるだろうかと思います。はるかに進んだ技術と文明の享受しているはずですが、事あるごとに「炎上」する世の中で、誰もが裁判官になりました。便利な情報ツールは武器にもなりました。しかし、人が本当にはどこを生きているのか、どこを生きて来たのか知り得ないのです。コヘレトはさらに太陽の下に「生まれて来なかった者」こそ幸いだと続けます。彼の絶望ここに極まれりでしょうか。しかし、こう願った人たちは確かにいたのですし、今もいるのです。ナチス政権下収容所や731部隊での人体実験、特高の拷問、カースト制度の最下層、部落差別、そして、2020年に起こった警官による黒人への暴力と抵抗デモ。「生きよ」と呼びかける聖書におよそふさわしくないような言葉は、私たちの生きる世界のあちらこちらの嘆きそのものでした。残念ながら日の下、太陽の下では、ありとあらゆることが起こるのです。それでも、それは日の下、太陽の下でです。「御心の天になるごとく地にもなさせため」と祈りを教えられた者は、なおその上にチャンネルを合わせ、手を組みたいのです。「例え雲の下を歩いているときでも、太陽について語り続けることができる人ことこそ、希望の訪れの使者であり、この時代のまことの聖人といえる人なのです」




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