巻頭言
2019年10月


2019年10月6日

「ヨセフの死」

犬塚 契牧師

『お前たちはヨセフにこう言いなさい。確かに、兄たちはお前に悪いことをしたが、どうか兄たちの咎と罪を赦してやってほしい。』お願いです。どうか、あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください。」…ヨセフは涙を流した。 <創世記50章17節>

創世記の最期49-50章は、ヤコブとヨセフの死で締めくくられます。臨終の際、エジプトに寄留中のヤコブは自分の亡き骸をカナン地方マクペラの畑に埋葬するように言い残します。そこは、祖父アブラハム、父イサクが地上で手にした唯一土地でした。創世記12章以降、壮大な約束で始まった一族の物語にして、それは余りに狭小に思えます。しかし、なおヤコブ自身は、アブラハム、イサクに与えられた約束を信じ続けるものでした。「神の約束はまやかしだった。私はエジプトの砂として終わる」という言葉もあり得ただろうと思いますが、臨終の言葉はそれではありませんでした。エジプトの宰相ヨセフは、自分の持っている力をフルに用いて、その願いを叶えます。40日かけてミイラとし、道中に腐敗しないように処置しました。70日喪に服した後、家族のみならず、戦車と騎兵を引き連れて埋葬を果たしました。▲父ヤコブ亡き後、兄弟たちは再びヨセフの報復を心配します。そして、ヤコブの言葉をヨセフに伝えるのです。(上記箇所)これは兄たちの作り話か、本当にヤコブのとりなしか読み手の意見が分かれます。ヨセフの再びの涙の意味も難題だと思います。ヨセフは語ります。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。」いつでも涙腺が壊れる場を生きています。言葉で表せない分が涙となってこぼれます。もう一方で思うのです。ここまで導かれた神の働きです。兄弟の悪、人の罪を善きことへと変えたもう神の誠実です。ヨセフによってヤコブの家族とエジプトは飢饉から守られています。神の約束の続きが果たされています。それを受け止めるならば、もう自分で復讐することはできない。「わたしが神に代わることが…」。ヨセフもまた死を迎えます。「それから、ヨセフはイスラエルの息子たちにこう言って誓わせた。「神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。そのときには、わたしの骨をここから携えて上ってください。」ヨセフは、父ヤコブのようにはカナンの墓に葬りを望みませんでした。神は約束の通りに再び顧みてくださると、「これから」を見つめています。かつての約束を今日も生きたヤコブとこれからを信じたヨセフで創世記は区切られ、出エジプトに続きます。



2019年10月13日

「主よ、帰りたまえ」

犬塚 契牧師

主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。… 主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください。朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ/生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。 <詩編90編より>

かつて人を殺めたこともあるモーセが「神の人」と呼ばれるのまでに必要だった年月と労苦は思い、どれほどであったかと。詩編90編、晩年近くの祈りとして聞いてよいと思います。出エジプトを果たして40年、荒野の旅を続けてきました。直行で2週間の旅を40年…。共に連れ立った人々は砂漠に葬ってきました。約束の地の土を踏まずに死んでいった人々の顔が浮かびます。代々に宿るところだった神は、「人の子よ、帰れ」(3節)と言われます。人の齢は七・八十年と限りが定められました。花のごとく散る人の命のはかなさが祈られます。「朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい/夕べにはしおれ、枯れて行きます。」そんな祈りは、日本人のメンタリティにも合致し、よく知られる祈りですが、その理由を問うまでは突き詰めません。神の人モーセには、その理由までが明らかでした。「あなたの怒りにわたしたちは絶え入り/あなたの憤りに恐れます。」(7節)約束の地を見渡すネボ山で見ながら、たどり着けなかった民たちの罪が他人事でなく迫ってきます。ゆえに神の人は祈ります。「主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください。朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ/生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。」その大胆さ…。「人の子よ、帰れ」と言われる神に、「神よ、あなたが帰れ」と嘆願するのです。やはり、モーセは神の人だと。それは神の心にもあることでした。▲モーセの時代を過ぎて千数百年、神のひとり子主イエス・キリストが来られます。クリスマス、神は帰られたのです。人は神の本音を徹底的に、決定的に、主イエスから知ることができます。「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」へブル書



2019年10月20日

「わが助けはどこから来るだろうか」

犬塚 契牧師

目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。…あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。  <詩編121編より>

「ヤッホー」と思わず叫びたくなるような山びこがこだまする緑あふれる山ではないようです。この地方独特の草木の生えていないゴツゴツとした荒涼の岩山です。心細さ、不安、寂しさ、困難が山影に映ります。「わたしの助けはどこからくるのか」と叫ばずにおれないのです。「都に上る歌」とは、巡礼に向かう旅でしょう。気楽な一人旅とは違います。礼拝に辿り着くまでもが、また大変な出来事でした。野獣や盗賊の難がありました。岩陰で休む時も、気が張ってまどろむことしかできなかったと思います。しかし、「わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。」(2節)と告白してから、読み手は増え、「どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし…」(3節)と「あなた」として巡礼者を励ましています。巡礼者の自分への語りかけか、子を送り出す親の言葉か、帰路を往く者への祭司の励ましか、読み方が分かれるところです。信仰生活において、「あなた」と呼びかける声を心の内に聞くことも、人を通して「あなた」はと励ましを受けることもあるでしょうから、どれが違うということでもないでしょう。不思議は、山を見上げて嘆いた巡礼者が、確かに元気づけられ、賛美に変えて旅を続けていることです。▲車で移動していますから、そんなに長い時間をかけてはいません。途中、盗賊の恐れも獣の心配もありません。舗装された道路を往復して礼拝に出かけています。感謝なことです。しかし、礼拝に辿り着くまでの心の道のりやその飢え渇きは共感する者でありたいと思います。目を上げて助けを祈るものでありたいのです。応える主の見守りは、巡礼者の道中を超えて、いのちまるごと「とこしえに」です。



2019年10月27日

「深い淵の底から」

草島 豊協力牧師

深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして。 <詩編130編1-6節>

詩編130編の詩人は危機のどん底であえいでいる。あたかも深い水底に沈んでもがいているように。彼は自分の罪、過ちが引き起こしたことを自覚しているからなのか、何も主張することなく、ただ神にゆるしを求めている。しかし絶望の中で同時に「御言葉を待ち望みます」と語る。詩人は寝ずの番の「見張り」が朝を待つのにも「まして」切実に待ち望んでいる。「見張り」は朝が来るのを知っているからこそ待つように、詩人もまた神は自分の罪をゆるして下さると信じて待っている。  詩人はどん底の中で「慈しみの主」を告白する。もしかしたらどん底に落ちたからこそ詩人は自分の信仰を自覚したのかもしれない。彼は神に叫び、祈る中で自分が何を信じているのか確かめていったのではないか。興味深いのは、詩人は自分の過ちを悔い改めるからゆるして下さいとは訴えていないことだ。彼はただ、神は慈愛の神、ゆるしの神であると告白するだけだ。神は無条件にゆるされる方であることを信じている。人が何かをするからではなく、神はゆるしの神だからゆるされるというのだ。詩人に誇れるものは何一つない。それは私たちも同じ。130編の詩人は信仰者であり、詩編に詩が残るくらいだからそれなりの人であったはずだ。その詩人もまた大きな罪を犯した。私たちは礼拝に集い、聖書を読み、祈り、賛美を献げる。しかし私たちもまた過ち、罪を犯し、そしてゆるされて…また失敗する。この詩人のようにもがき苦しみ自分の罪に気づかされ、自分の信仰を再確認していく。この繰り返しではないか。しかしそんな中で私たちのもがき、うめき、叫びは神との対話であり、この対話を通して私たちは生かされてく。




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