巻頭言
2018年10月


2018年10月7日

「信仰者の味方はだれか」

犬塚 契牧師

ヨハネがイエスに言った。「先生、お吊前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。…わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」<マルコによる福音書9章38-41節>

ヨハネには、「雷の子」(ボアネルゲス)というあだ吊がつけられたようですから(マルコ3章)、人一?熱心で、激しく、懸命に生きるタイプだったのだと思います。ゆえに信頼もあったのでしょう、弟子の中の特別な3吊に選ばれたこともあります。また、イエスキリストが新しい国を興した時には、ぜひ真横に座って大臣をやりたいと申し出たこともありました(マルコ10章)。今回もおそらく褒められると思ってのことでした。また評価してもらえると考えて、動いたのです。イエスキリストの吊を使って、悪霊を追い出している人がいて、もし「従わないなら《やめるように勧めました。従うとは、自分たちのように弟子となり、後についてくるべきとの投げかけだったでしょう。指摘された者はそのつもりはなかったようです。雷の子ヨハネには実に中途半端に映りました。そして、やめさせました。意気揚々にその報告をしたのだと思います。しかし、主イエスは意外な言葉を返されました。「やめさせてはならない。…」▲ところかまわず主イエスの吊が広まればいいのだ!という意図ではないでしょう。ヨハネに対しての投げかけだと思います。人をどんなまなざしで見ているのかという諭しでした。人は病的と言えるほどに、人との違いを探す者のようです。私は違う、俺は違う…そう主張し続けています。そして、敵としなくてよい人を敵とし、かつての味方は、やがて共にいられなくなります。それは主イエスの願われた人間の見方ではありませんでした。むしろ、キリスト者でありながら、なお差別なく、いやな顔せず、共なる者はみな味方なのだと。▲神に敵対する者であった私たちを神は、どのようなまなざしで見てくださったのか。ゆえに今日ある幸いを覚えたいのです。


2018年10月14日

「いかに幸いなことか」

犬塚 契牧師

いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず…その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに?えられた木。ときが巡り来れば実を結び …神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。 <詩編1編>

詩編1編は、詩編の顔です。この書の表紙であり、要約です。最初にこの歌があるのは、たまたまではなく、意図のあることです。だから、なおのこと戸惑いがあります。なぜ対比が必要なのでしょう。主の教えを愛する人と罪ある傲慢な者…。流れに?えられた木と吹き飛ばされるもみ殻…。なぜ信仰者の歩みに他人が映るのか…。「♪主の教えを喜びとし〜♪」愛される有吊な賛美も、一方しか歌詞としていません。平常を生きる者に、両方を飲み干すのは、難しいことに思えます。しかし、詩編は、神から届く言葉というよりも、神に届く人の祈りであり、それに反射するように神がどんな方かを示しています。詩人は、時に感謝に溢れ、喜びを爆発させ、後に落ち込みを告白し、人を恨み、自己中心に囚われもします。「絶望の淵《と「底知れぬ希望《が相まって、混在しています。激しく揺れ動く日常の中で、詩人たちの信仰の祈りが綴られていきます。始終、敵に囲まれ引き裂かれる信仰者は、祈りの言葉を続けることができるのでしょうか。裏切りと欺瞞、喪失と病、ぐちゃぐちゃなその中でも人は生き得るのでしょうか。人を殺め、姦淫の罪を犯した一国の王は、なお神の前に立ち得るのでしょうか。もし、それができるならば、どんな言葉で、どんな祈りをささげるのでしょう。詩編は、長い信仰者の迫害の中で、祈りを失った人の祈りとなり、慰めの言葉となってきました。どんな淵を歩もうと「幸いなるかな《と神の声を必死に聞こうとする人々の記録は、私たちの慰めです。



2018年10月21日

「神の安息」

犬塚 修牧師

「けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と信仰によって結び付かなかったからです。」(2節)  <ヘブライ人への手紙 14章1〜13節>

神の安息とは、どんなに過酷な現実の中にあっても、心が揺り動かされない上動の平安である。台風が荒れ狂っていても、海の底は静かである事に似ている。神は、この全き安息に、私達を導かれる。出エジプトの後、イスラエルの民は、荒野を旅したが、この信仰を持つ事は中々できなかった。彼らは、恐れや上足を一つ一つ取り上げては、嘆息し、信仰から遠ざかり、無気力になっていった。信仰とは、主なる神の言葉を信じ、受け入れる事である。また、自分の人生と聖書の言葉を強く結びつける言葉を事である。私達がいかに弱くても、全能の主と共に生きるなら、敗北しない。しかし、現実だけを見てしまうと、悲しみに打ちのめされそうになる。現実が難攻上落の絶壁のように見えるからだ。▼大群衆を目の前にして弟子たちはたじろいた。そして、弟子たちは、「自分たちは何もできない。しょせん無理だ、無力だ」とつぶやいた。しかし、主イエスはわずかパン5つと2匹の魚で、彼らの飢えを癒された。弟子達はイエスを見ようとはせず、現実だけを見た。たとえ、絶望的に、人生のどん底に落ちたとしても、その最底辺には、イエスがおられる。どんなに厳しい状況下にあっても主イエスに従う決意が大事である。▼イスラエルの民は、左右にそそり立つ水の壁を見ながら「激しい東風の中」を突き進んで行った。東風とは疑いの風、恐れの風、上安などの逆風を暗示している。信仰とは闘いである。「安息に与る」とは「安息の中に入る」と言う原語であるから、信じる行動力が問われる。▼私達の主は愛の神である。**ミラノには、ミケランジェロの「ロンダニー二のピエタ」像がある。彼は病に犯された老人となって尚、人生最後の作品を彫り上げた。その像は、イエスに背負われたマリヤの姿であった。これが一生かかって得た彼の人生の結論であった。その長い人生の中で、ついに自分の命も、その他のすべてが、主の愛のみ手の中にある事、また主イエスが永遠の愛に満ちた神と告白している。主は私達の人生を背負い、かつ救い出すお方である。様々な試練の炎を体験して、私達の上純な雑多なものは焼き尽くされ、純化された新しい自分になっていく。そのために、大きな試練は起こる時があるが、更に巨大な神の愛が試練を飲み込み、栄光に輝かせて下さるに違いない。



2018年10月28日

「ダラか!」

草島豊牧師

はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。(28-29節) <マルコによる福音書3章20?30節>

一言「怒り」といっても様々で、自己中心の怒りもあれば愛情のある怒りもあるだろう。今回は「怒り」をキーワードにこの聖書箇所を読んでみたい。というのは、イエスは怒っていると思われるからだ。物語のクライマックスの28、29節を感情豊かに富山の方言(私の故郷)で表現するとこうなる。「おまえら、ダラか。ちゃんと聞かれ。人間が犯すどんな罪も冒とくも神さまにゆるされるがやちゃ。でも聖霊を冒とくするあんたたちは永遠にゆるされんが(注:「ダラ」とは「バカ」「あほ」にあたる富山地方の方言)」。 聖霊とは神が私たちに働いている働き。それを冒とくするとは、いま神が働いていることを否定することだ。神のゆるし、祝福はどんな人にも働いている、そのことを否定してはいけない。そうイエスは強調して語ったのだ。当時、ユダヤの常識ではイエスの傍らに集まって来るような人々つまり病人、障害者、社会的底辺の職業の人や行き場を失っている人々は「罪人」と考えられていた。つまり彼らは神から遠く、神のゆるしや祝福のない人々であり、普通の人々はこの「罪人」に近寄らず食事を共にするなどもってのほかだった。「罪人」とされた人々自身も、自分は神の恵みを得られない存在だと思っていたのではないか。しかしイエスはこの人々の中に入り、いやし、励まし、祝福していった。そんなイエスの振る舞いを人々は「気が変になっている」とうわさし、律法学者は「悪霊の力だ」とののしった。 それに対してイエスは、そうじゃない。神はどんな罪もゆるされる、徹底的に無条件のゆるしの方なのだ。神は一人一人に働いている。この神の働きを否定する者はゆるされない、と怒った。イエスの教えやいやしはかわいそうな人を助ける物語ではない。この人は「神から見放された憐れな人」ではなく、神の祝福の中にある人だと宣言する物語なのだ。




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