巻頭言
2017年10月


2017年10月1日

「そんな神様はきっといない」

犬塚 契牧師

弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。 <マルコによる福音書8章14-21節>

幼い時の私の神とは、文字通り雲の上に住んでいる存在でした。それは、疑いの入らない確信でもありました。雲の切れ間から光が漏れれば、すぐにでも神が降りてこられるのではと思いました。しかし、飛行機に乗って雲の上を通った時、そこに神の住まいがないことを知りました。やがて、クリスマスの出来事から、神が来られた場所を見つけました。そして、最初のクリスマスに、神が招いた人々を知りました。東にいた魂の探究者たちであり、野原に追いやられた下層の羊飼いたちであり、始まりは、恐れを抱く若いカップルでした。それが雲の上に鎮座するよりも素晴らしい知らせだと知るのに少し時間が必要でした。▲信仰始まりには、神に見せられない隠した小部屋のいくつかがありました。良い子を愛する神を信じていたのです。しかし、やがて、神に隠し通せる部屋などないことを知りました。むしろ自分の好ましさや、誇り得るところではなく、自分でもどうかと思うような性格にしろ、弱さにしろ、課題にしろ、痛みにしろ、それらこそが神が出会おうとされるミーティングポイントであると知りました。▲自分の安心と確信のために、神を操作しようとか、試みようとか、そんな労苦には一切答えられない神を知りました。操作に乗らない神、操作されない神は、だからこそ神であることを示され、それを受け入れる心を与えてくれました。聖書に触れるようになって、「そんな神」が次第に壊れてきました。信仰者は皆、きっと瓦解した神のかけらを持っています。「そんな神をきっといない」のです。十字架の神が描かれますようにと祈ります。


2017年10月8日

「感謝の祈りを唱えて」

犬塚 修牧師

「さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた」 <ヨハネによる福音書6章11節>

イエスは、ご自分に従ってきた人々が飢えている姿を見て、彼らにパンを与えようとされたが、その数は男性だけで約5000人、女性や子供たちを加えたならば、おそらく2万人にもなろうかと思われる大群衆であった。その余りの人数の多さを見た弟子のフィリポは「200デナリオン(約150万円に相当する)のお金があっても無理です」と答えた。また、アンデレも「ここにパン5個と魚2匹を持っている少年がいますが、こんなにわずかなものでは、何の役にも立ちません」と諦めの念を表した。しかし、イエスは、そのわずかなパンと魚を受け取り、感謝の祈りを御父に捧げて、大群衆に配られた。すると、その場にすべての人々が満腹したばかりか、残ったパン屑を集めると、12かご一杯になったのである! ▼この出来事は、主に従う者に対する神の奇しいみ業を示唆している。私達は、神の子イエスがいかに恐るべき権威の主であるかを、もっと深く知る必要がある。主は無から有を創造される全能者である。それゆえに、私達は自分の計算や思い込みで、こんな些細なもの、わずかなものには何の価値もないと思ってはならない。むしろ、信仰に立って思い切って、それを主に捧げるならば、主はそれを用いて偉大な事を実現されるのだ。▼ また、私達はどんな事にも、まず感謝する事が、いかに大切である事を教えられる。私達は目に見える現実を見て、〇、×と速断しやすい。また、現実そのものを拒否してしまったり、相手のしている事を×と見なして、裁いてしまう事もある。しかし、自分の考え方が、絶対的に正しいとは言えない。むしろ、マイナスと見える中にも、神の全き支配があると信じて、一切を主の御手にゆだねたいものである。そこから、主は驚くべきみ業を起こされると確信しよう。▼ 自分の不満や不安の隠された原因は、自分がいつの間にか、相手を支配する独裁者になっている事にある。もし、そうである事に気づいたならば、即座に悔い改め、心の痛みと悲しみを主イエスに任せましょう。



2017年10月15日

「ヨブを苦しめるもの」

草島 豊協力牧師

ヨブは答えた。どこまであなたたちはわたしの魂を苦しめ、言葉をもってわたしを打ち砕くのか。侮辱はもうこれで十分だ。わたしを虐げて恥ずかしくないのか。わたしが過ちを犯したのが事実だとしても/その過ちはわたし個人にとどまるのみだ。ところが、あなたたちは、わたしの受けている辱めを誇張して論難しようとする。それならば、知れ。神がわたしに非道なふるまいをし、わたしの周囲に砦を巡らしていることを。だから、不法だと叫んでも答えはなく、救いを求めても、裁いてもらえないのだ。神はわたしの道をふさいで通らせず、行く手に暗黒を置かれた。わたしの名誉を奪い、頭から冠を取り去られた。四方から攻められてわたしは消え去る。木であるかのように、希望は根こそぎにされてしまった。神はわたしに向かって怒りを燃やし、わたしを敵とされる。その軍勢は結集し、襲おうとして道を開き、わたしの天幕を囲んで陣を敷いた。神は兄弟をわたしから遠ざけ/知人を引き離した。親族もわたしを見捨て、友だちもわたしを忘れた。わたしの家に身を寄せている男や女すら、わたしをよそ者と見なし、敵視する。僕を呼んでも答えず、わたしが彼に憐れみを乞わなければならない。息は妻に嫌われ、子供にも憎まれる。幼子もわたしを拒み、わたしが立ち上がると背を向ける。親友のすべてに忌み嫌われ、愛していた人々にも背かれてしまった。骨は皮膚と肉とにすがりつき、皮膚と歯ばかりになって、わたしは生き延びている。憐れんでくれ、わたしを憐れんでくれ、神の手がわたしに触れたのだ。あなたたちはわたしの友ではないか。なぜ、あなたたちまで神と一緒になって、わたしを追い詰めるのか。肉を打つだけでは足りないのか。どうか、わたしの言葉が書き留められるように、碑文として刻まれるように。たがねで岩に刻まれ、鉛で黒々と記され、いつまでも残るように。わたしは知っている、わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、わたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る、ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。「我々が彼を追い詰めたりするだろうか」と、あなたたちは言う。この有様の根源がわたし自身にあると、あなたたちは言う。あなたたちこそ、剣を危惧せよ。剣による罰は厳しい。裁きのあることを知るがよい。? <ヨブ記19章1-29節>

ヨブは「無垢で正しい人」であったが神はサタンにヨブを試すことを許可する。そしてヨブは不条理の苦難に襲われ、三人の友人が見舞いに来ても話しかけられなかった。ヨブの嘆きで三人の友人たちとの論争がはじまる。ヨブと友人たちとの議論の背景には「応報思想」がある。善人は繁栄し悪人は滅ぶ、人間は被造物だから何か罪を犯す、神は懲らしめによって教える、というもの。友人たちはヨブがこんなひどい目にあうのは何か罪を犯したからだと考え、ヨブに悔い改めを促す。友人たちはヨブの気持ちの分からない身勝手な人たちか。むしろ三人は親友だ。わざわざ遠方から見舞いに来て、七日七晩一緒に座っていた。三人にとってヨブは大切な友だからこそヨブを諭して、教えようと必死になる。  19章にはヨブの二つの葛藤がある。ひとつは神との葛藤、神への信頼と疑い。ヨブは「わたしを贖う方は生きておられる」と信頼すると同時に「神がわたしに非道なふるまいをし」「わたしを敵と」なったと抗議する。しかしヨブは神への疑問を隠さず論争を通じて深めていく。友人たちはヨブを説得しようとし、友人関係は破綻寸前となる。葛藤の二つ目は友人たちとの葛藤。相手を愛するがゆえに、傷つけ孤独になっていく。  ヨブ記を読みながら、ああここに人が生きている、と思う。不条理の中で、苦しみ、もがき、右往左往して生きている切ない人間の様を、ありのままに描いている。神を疑い、怒りをもぶつけるヨブを神は罪に定めなかった。そして三人の友人たちも罪に定めていない。ヨブ記の中で神は積極的に、こうしなさいと介入してはこない。ヨブ記の情景は必死で生きている私たちの日常ではないか。語りかけても返事はないが、見捨てられてもいない。答えがあってもその意味が理解できない。そんな人間だからもがいて、悩んで、苦しんで、神を疑う。ヨブ記にはしかし、そんな私たちを罪に定めない神の姿が描かれている。



2017年10月22日

「聖書と病について」

大野澤 透兄

「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。」 <マタイによる福音書4章23-25節>

 聖書が書かれた時代、病とはいったい何だったのか。当時のユダヤ人社会で、特徴的だったこと、それは病が罪の一種であったことだ。病は穢れであり、穢れは罪とみなされた。私たちはそうは考えない。病は病であって、まずは治療されるべき身体の状態と考える。しかしイエスの時代はそうではない。神との関係における事柄なのだ。神との関係において、神から断ち切られていること、それが罪であり、そのような人間は神殿への出入りが禁じられ、礼拝も許されなかった。神に選ばれた民にもかかわらず、神の前に立つことが許されない。それは私たちが想像する以上の苦しみであったに違いない。ルカによる福音書の5章12節以降で、重い皮膚病の人の訴えに対してイエスは「よろしい、清くなれ」と言われた。清くなること、それはイエスがこの人を、神のみ前に立ち、礼拝できる者、神に結ばれた者として回復させられたということだ。単に病を治療したのではなく、神の前に清い者とされたこと、これこそが神の恵みであり、イエスの奇跡の本質である。このイエスに大勢の群衆が「従った」とマタイは報告する。この群衆はイエスに病を癒されたから、イエスに従ったのではない。救いを体験したからイエスを信じ、従ったのではない。イエスを信じ、従うことで救いを体験していく、そういう人生を選んだのだ。私たちも全く同じではないだろうか。過去に救いを体験したから、イエスを信じ、従った。洗礼も受けた。けれども、そのこと以上に、イエスを信じ、従うことで救いを体験していく、そういう人生を私たちは選んだのだ。聖書は一見私たちと何の繋がりもないことを報告しているように思えることがあるが、そうではない。ルターは真の信仰を定義して、イエスのみ言葉や行いが「実にあなたのためにこそそうなのだということを、大胆に信じること」と書いている。そういう意味でイエスの奇跡は、いま私たちが生きる、この時、この場所に間違いなくつながっている。神は何としてでも、ここに生きる私たち一人一人の病をいやし、罪を清めると決めておられる、そのことを改めて思い起こそう。救いの起こるのは、他でもない、私たちが生きる今この時、この場所なのだから。



2017年10月29日

「信仰によって生きる」

犬塚 修牧師

わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。 <ローマの信徒への手紙1章16-17節>

 今朝は「召天者記念礼拝」また、宗教改革を覚える記念礼拝である。丁度500年前の今月31日にドイツの若き修道士マルティンルターは、ヴィッテンベルグ城教会の門扉に「95か条の論題」の意見書を貼り付けたが、それが世界の歴史を揺るがす大事件となった。この日からヨーロッパに宗教改革ののろしがあがったのである。当時、ルターは自分の罪の問題で苦しんでいた。 彼は聖なる神の義を得るために、自らが難行苦行を行って、魂の救いと平安を獲得しようしたが、どんなに頑張っても、その確信を得ることができなかった。ある日、彼はこのロマ書の箇所を読んで、目から鱗が落ちる体験をした。そこに、神の義は自分の努力や精進や功徳を積むことで、得られるものではなくて、ただ、神の義を神の恵みの賜物として受け取ることで良いのだと確信した。私達人間のなすべきことは、ただこの恵みを信じ、感謝し、受け取るだけだという天啓を得た。その時から、ルターの信仰生活は一変した。以前は、いつも自分の罪や失敗や挫折感で、自分や他者を激しく責めていたが、新しく生まれ変わった後は、自分が弱く、惨めで、失敗だらけの生き方しかできなくても、神の義は、私達の信仰によって実現していく、と信じたのである。▼「自分が」から「自分に」への転換ーー16節に「福音は……信じる者すべてに救いをもたらす神の力」とある。「救い」は解放である。あらゆる束縛や裁きからの解き放たれることである。「私に」と記されている。もはや以前のように「私が、私が」という力味がなく、「主がこの私に、何を求めておられるのか?」という柔らかさがある。▼「義」ついてーー義とは「神と私との正しい関係」の事である。また、羊の下に「我」を書いている語源が義である。パウロもルターと酷似しており、自分の罪や自我に関して苦しんだ人物である。パウロは「人の義」を建立するのではなく、神からの義を受けることで、新しい命、真理の道を発見すると激しく語っている。私達の人生の中に、神の子羊であるイエスを冠として頂くことが私達の義である。これこそが救いの道である。「我」は荒々しい形を表しているが、羊のような愛に富まれるイエスを深く意識することで、私達は救いの歩みが与えられる。▼イエスと共に生きるーー「私は道であり、真理 であり、命である」(ヨハネ14:6)と主は言われた。私達が踏みしめて進む道はイエスが守り、支えて下さる細い道である。その道から外れ、我力や肉の力で生きようとしてはならない。いかなる困難があっても、主に従い、主を礼拝して生きたいものである。




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