巻頭言
2016年10月


2016年10月9日

「この預言者の渇望」

犬塚 契牧師

第三十年の四月五日のことである。わたしはケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々の間にいたが、そのとき天が開かれ、わたしは神の顕現に接した。      <エゼキエル書1章より>

 祭司エゼキエルの召命の場面。すでにエルサレムは、新バビロニア帝国によって占領され、ヨヤキン王や主だった人々は移住を強いられました。遠くにエルサレムと神の臨在の証拠なる神殿を思いながら、「バビロン捕囚」の民は集まって、ケバル川のほとりで祈ったのでしょう。国を奪われ、神殿を失った礼拝は、それ以外にありませんでした。詩編137編に彼らの気持ちを歌った歌があります。「バビロンの流れのほとりに座り シオンを思って、わたしたちは泣いた。竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。わたしたちを捕囚にした民が 歌をうたえと言うから わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして 「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。どうして歌うことができようか 主のための歌を、異教の地で。」(詩編137編)▲賛美をしようにも冷やかしがありました。力ない神だと、守れない神だとの嘲りがあります。そして、「歌え」とバカにされます。神はすでに民を忘れられたのでしょうか。それとも、神が違ったのでしょうか。エゼキエル書1章に彼の見た幻があります。「わたしが見ていると、北の方から激しい風が大いなる雲を巻き起こし、火を発し、周囲に光を放ちながら吹いてくるではないか。その中、つまりその火の中には、琥珀金の輝きのようなものがあった。またその中には、四つの生き物の姿があった。その有様はこうであった。彼らは人間のようなものであった。…」描こうにも困難な「生き物」の姿があります。それでも、脈々と「生きている!」そんな様子です。それは「主の栄光の姿の有様」(28節)でありました。そして、エゼキエルの預言者としての働きが始まります。▲エゼキエルの幻は、見たことがありません。イエスキリストの出来事に神の「生きている」を見出す者です。教会はそれを共にできる唯一の場です。



2016年10月16日

「沈黙」

犬塚 契牧師

モーセは主のもとに帰って、訴えた。「わが主よ。あなたはなぜ、この民に災いをくだされるのですか。わたしを遣わされたのは、一体なぜですか。わたしがあなたの御名によって語るため、ファラオのもとに行ってから、彼はますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません。」<出エジプト記5章>   

 モーセとアロンが初めて、エジプトの王ファラオのもとに向かいました。主を礼拝するためにエジプトを去らせてほしいと伝えるためです。事実、そのように伝えました。しかし、太陽神の化身と言われたファラオは答えます。「主とは一体何者なのか」。あっさりと否定します。そして、ファラオ対ヤーウェの神対決が始まります。ファラオはこれまでの倍の重労働を命令するのです。苦しめられるイスラエルの民、その怒りの矛先は当然、モーセに向けられます。そして、上記の聖書個所。どうしてもこうも上手くいかないのでしょう。なぜ神は沈黙しているのでしょう。出番ではないでしょうか。▲出エジプト記、モーセの生涯が、映画になり、アニメになり、ミュージカルになり、宣伝されます。「壮観、雄大、大迫力、大スペクタクル」と。そういう面もあるでしょう。しかし、5章の一人一人の立場と心を考える時に、そんな言葉はふさわしいものではない気もします。先が分らないような苦しみの中で無力さに打ちひしがれ、どうしようもなくなり、沈黙の天を見え上げて祈るとは、むしろ地味であるし、ゆえに日常生活の只中にあることです。今日も、知らぬところで世界中の人々がそのように自分の弱さを知り、祈っています。そして、神様はそれを待っておられる方のようです。神が意地悪だからでも、祈りが天に届くのに時間がかかるからでもないのでしょう。どういう理由か、神の恵みは水と同じく、最も低い所へ流れていきます。低きへ低きへです。逆はあり得ません。キリスト者が世に示すことができるのは、成功体験とその公式ではなく、謙遜と悔い改めのみです。謙遜と悔い改めにおいてのみ私たちは成長するようです。そして、その中にある人は、本当に喜んでいる人だと思います。



2016年10月30日

「天へ」

犬塚 契牧師

あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。 <使徒言行録1章>   

 「世界の歴史はその根底を覆されていないこと、世界は贖われていないことをより深く、より正しく知っている。世界が贖われていないことを感知している」…マルティンブーバー(ユダヤ教の哲学者)が、なぜイエスをメシアと認められないのかを語ったのは、1933年のドイツにおいてでした。この年、ヒトラーがドイツを掌握し、日本は国連を脱退、長く世界は地獄を現実にしました。イエスの誕生以後、世界は贖われたのか?これがその世界なのか?断固、自分たちはメシアを待つ…彼はそう込めました。弟子たちに「あなたがたには世で苦難がある」と語られたイエスキリストは、同意したでしょうか。私たちは、なお「苦難ある世界」その中にいのちを置かれている存在です。しかし、またイエスキリストは「神の国はあなたがたの間にあるのだ」とも言われました。「すでに」神の支配の内にあることの知らせがあります。「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(ルカ11:20)その慰めがあります。同時に「やがて」の神の支配も教えられています。「だからこう祈りなさい…御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも」。…私たちは、神の支配の「すでに」と「いまだ」の間を生きる存在です。▲イエスキリストの復活は、神が死を勝利を高らかに宣言したままの世界を許されなかったことを証明します。人々の悪意と妬みと思惑がイエスを十字架刑にし、成功を治めました。しかし、死は「絶対的」な力ではありませんでした。だから、死に膝をかがめ、礼拝する必要がなくなったのです。イエスキリストは復活後に昇天されました。その別れのシーンが使徒言行録1章です。別れなのに「さよなら」がありません。主イエスキリストは、生と死と死の後の生も共にある方です。




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