巻頭言
2015年10月


2015年10月4日

「新しい自分を生きる」

田中宣之神学生

 「イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」  <ヨハネ3章1-16節>

 ヨハネ福音書は、ニコデモに代表されるユダヤ教全体に向かって、永遠のいのちを受け継ぐには「何をすればよいのか」という人間の行いを問うのではなく、「新しく、上より生まれる」必要があることを示し、霊的に「新しく生まれるため」の理解へ心を開くことを語っています。イエスが霊の次元のことを語っておられるのに、それを聴いた人間が霊の次元を理解できず、あくまで地上の体験の範囲内で理解しようとして見当違いの質問をするという場面がしばしば出てきますが、ここもその典型的な一例です。▲「肉から生まれたものは肉であり、霊から生まれたものは霊である」(六節)。まず、霊と肉の次元の違いが対比されます。「肉から生まれたものは肉である」というのは、肉体から生まれたものは肉体にすぎないという意味も含んでいますが、それだけでなく、人間の側の行為や努力で生み出される結果は人間性の限界を超えることができないこと、すなわち時間や死によって限界がある「はかないもの」であることを意味しています。それに対して「霊から生まれるものは霊である」とは、神の御霊によって人間の内に生まれる現実こそ、死に定められた人間性に限界されない、永遠にある霊的現実であることを示しています。▲ギリシャ語の《プニューマ》は、息、風、気、霊というような意味で用いられる語です。この風の比喩で大切なことは、人間は風をコントロールすることはできないという事実です。風があることは、「その音を聞く」ことで分かります。御霊の働きにおいても、力ある業(奇跡)の現象や人間の在り方を変えるという事実によって分かります。しかし、その御霊の働きを人間の側からコンロールすることはできません。御霊は「思いのままに」働かれます。人間は、ひれ伏して、あるいは心を開いて、その働きに身を委ねるだけです。▲ヨットの趣味を通して私はそこに「設計者の意図」を感じました。被造物には設計者すなわち「創造者の意図」が必ずあります。それを誤った使い方をしていると本来の豊かな能力を制限してしまうのではないでしょうか。私たちは日常生活において、どの力により頼んで生活しているのでしょうか。人間の造り出した科学の力、知識の力、経済の力に依存しすぎてはいないでしょうか。神の力である聖霊の力により頼んでいるでしょうか。セイルを高く揚げて風を受け、適切に舵を切らなければ、風の力で進むことはできないからです。そのためには、私たちの日々の暮らしの只中において静かな祈りの時を大切にして心を整え、周囲の状況をよく観察し、上からの意思を肌で感じ、聴くことではないでしょうか。そして「その霊の力を信じて身を委ねる」ことが求められているのです。一時的なこの世の価値観だけにしばられずに、朽ちることのない霊的な祝福の人生を求めて生きていきたいと願います。



2015年10月11日

「暗澹たる希望」

犬塚 契牧師

 主は手を伸ばして、わたしの口に触れ/主はわたしに言われた。「見よ、わたしはあなたの口に/わたしの言葉を授ける。見よ、今日、あなたに/諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し/あるいは建て、植えるために。」  <エレミヤ書1章1-10節>

 キリスト誕生の600年も前に南王国ユダに遣わされた預言者エレミヤ。世襲である祭司として生まれましたが、神の呼びかけを聞き、10代で預言者として立っていく腹を決めます。エレミヤは、幼少期に稀代の悪王マナセの時代を過ごしました。彼の時代、祭司たちの仕事場であり、民たちの礼拝の場は、異教文化と偶像が持ち込まれ、子どもたちが火で焼かれることもありました。アナトトという小さな町の祭司の家で育ったエレミヤの目には、人の罪や痛みと神の悲しみが映り、神の言葉を「預かり」語る預言者の鉱脈が掘られていきました。同世代のヨシヤ王が8歳で即位し、20歳を過ぎて力を得て来た時、エレミヤは預言者となります。一方、南王国ユダを取り込む国際情勢は、100年のアッシリア帝国の支配が急速に衰え、激動の時代へと向かいます。ヨシヤ王が礼拝をエルサレム神殿に一本化し、偶像礼拝を廃して、宗教改革を始めたのも、これからの国の方向を示す意味でも大切な働きでした。エレミヤもまたそのことに賛同し、期待したと思います。マナセ、アモンの悪王の時代から代わって、好循環していくようなこれからの国を思い描いたでしょうか。打てば響く、恵まれた預言者人生を想像したでしょうか。しかし、エレミヤは知らされます。「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。」(エレミヤ書17章)▲神の愛、翻っての怒り、その共感と民たちへの深い同情が、一人の預言者を挟み、預言者はうめき、うめきは涙と変わります。どうしようもない者たちのあげる手は本当に祈りの手なのか、否、私のあげる手は祈りなのか。やがて、南王国も北イスラエルと同様に滅ぼされ、捕囚の道へと向かいます。エレミヤは痛む民たちと連帯し、主を求める生涯を生きます。そして、かつて「抜き、壊し、滅ぼし、破壊」を伝えた預言者は、「建て、植える」預言をするようになります。もっとも低きところから、聞こえる慰め。暗澹たるところからなくならない希望が響いてきます。神が神ゆえに。



2015年10月18日

「契約の先を」

犬塚 契牧師

 「アブラハムはさらに、羊の群れの中から七匹の雌の子羊を別にしたので、アビメレクがアブラハムに尋ねた。「この七匹の雌の子羊を別にしたのは、何のためですか。」アブラハムは答えた。「わたしの手からこの七匹の雌の子羊を受け取って、わたしがこの井戸を掘ったことの証拠としてください。」 <創世記21章22−34節>

 ゲラルの王アビメレクは、どうしていちキャラバンの長に過ぎないアブラハムに、友好条約を申し込んだのでしょうか。「神はあなたが何をなさっても、あなたと共におられます」とアビメレクは最初に申し出ます。「あなたが何をなさっても…」とは、かつて、アビメレクに妻サラを妹と偽って差し出したアブラハムへの皮肉でしょうか。それでもなお守られるアブラハムの神に恐れを覚えたのでしょうか。自分の目の黒い間は、大丈夫だとしても、自分の子、孫の時代には立場の逆転を想像したのかも知れません。「どうか、今ここでわたしとわたしの子、わたしの孫を欺かないと、神にかけて誓ってください」。▲井戸を奪われた過去をアブラハムが責めた後に、和解が進み、アブラハムの財産の中から、羊と牛の群れがささげられました。アビ・アブ友好条約が結ばれます。しかし、さらにささげた動物のその中から雌羊七匹を別にするアブラハムがいます。アビメレクは尋ねます。「何のためですか。」アブラハムがすべてささげるのがもったいなく感じ、惜しくなったのか、気が変わったのか…。雌羊とは最高のささげものを意味しました。「別にした」とは、聖別を意味します。アビメレクには、分からなかったでしょう。ささげられるすべては約束通りアビメレクのものとなりました。しかし、アブラハムにとっては、神への特別な感謝があります。友好の条約も井戸の約束もやがて破られることでしょう。次世代にはどんなことがあるのか分かりません。アブラハムが契約の先にある神の働きを覚えたのだと思います。21章の前半はサラの笑いから始まり、中盤は、家族の修羅場です。それでも、終盤にささげられた歩みの振り返りに神を信じる信仰者の在り様をみます。明日を守られるのは、神への信頼。



2015年10月25日

「キリストがわたしの内に」

犬塚 修牧師

 「私は神に対して生きるために、律法に対して律法によって死んだのです。私はキリストと共に死んだのです。私はキリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」 <ガラテア人への手紙2章19〜20節>

 パウロや16世紀の宗教改革者ルターは自分の罪の問題で苦しんだ。彼らは恐ろしい罪が赦される為には、律法を行う事が不可欠と信じていた。しかし、ついにキリストを信じる信仰によって救われるという確信に至った。十字架を信じる信仰によって救われたという喜びは、やがて世界の歴史を揺るがす結果をもたらしたのである。人はどんなに熱心に律法を守っても救われない。律法は罪の深刻さを教える養育係である。もし、律法に固執するならば、私達は決して救われず、真の平安も訪れない。むしろ罪意識の奴隷となるであろう。「キリストの血潮によってのみ、私は救われた」という神の犠牲的な無償の愛を信じる事が私達の唯一の救いの道である。▲キリスト信仰によって、私達は「救いには行いも大切だ」とした偽りの思想の建物を打ち壊した。だが、人は弱いもので、いつの間にか、キリスト以外にも依存して、その古い建物を再び、再建したり修繕してしまう事がある。この世の思想の誘惑は強いのである。信仰のみという一徹した信仰を貫く事は、自分の弱さとの戦いでもある。▲パウロは当時、広大な世界を旅した非常に動的な伝道者であった。その人が「私はキリストと共に十字架につけられて生きてきた」と回顧している。即ち、自分の人生は実は、静的なものであり、また苦労と痛みと悲しみと嘆き等が一杯あったと告白している。しかし、そこには、明るい喜びが感じられるのは、キリストが共に苦しみを受けて下さったという確信があったからである。自らは孤立して戦ってきたのではなく、キリストが常に共にいて、勝利に導かれたと悟っていた。▲十字架上の姿は、格好の良いものではなく、むしろ恥辱である。重い犯罪人として裸にされ、人々の嘲りを受け、激痛を我慢しなければならない。パウロは、自分の思い通りにならない重い現実があっても、その出来事や定めを冷静に受け入れている。そして、そのあるがままを感謝し、ゆだねている。自分自身が死に、キリストが自分の中に生きておられるという霊的現実が、彼に大きな平安と喜びを与えている。パウロの生涯は、律法的生き方と絶縁し、キリストの愛に 生き、共に死ぬ事であった。




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