巻頭言
2014年10月


2014年10月5日

「弱さの中でキリストに出会う」

草島 豊兄

 わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。 
<コリントの信徒への手紙U12章10節>

 パウロの宣教によって出来たコリントの教会はエルサレムからきた人々によって混乱していました。彼らは偉大な奇跡を起こす強いイエスを強調し、律法を厳格に守ることによって救われると伝え、障がいのあるパウロが使徒としてふさわしくない、と吹聴さえしたようです。 しかし、このとき実はパウロ自身、彼の積極的な宣教活動と「働きがなくても」「行いによらず」義とされる神(ローマ4:5-6)への信仰との間でジレンマがあったのではないでしょうか。確かに献身的な強い働き人によって、彼の世界宣教は進展しました。しかしそれは積極的に関われる人とそうできない人を分け、行いによって信仰が測られる、という新たな律法主義を生み出す危険と裏腹です。そんな中で起こったコリント教会の騒動。しかし苦境の中だからこそ、パウロは自分の弱さ「とげ」を直視し、受け入れ、弱いときにこそ働くキリストの真理を自覚できたのではないでしょうか。  またパウロが語る「働きがなくても」「行いによらず」義とされる神への信仰を真っ先に理解したのは、出来る人よりも、教会の中で自分の弱さと葛藤していた人々だったのではないでしょうか。



2014年10月12日

「召命」

犬塚 契牧師

 「そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」主は言われた。「行け、この民に言うがよい よく聞け、しかし理解するなよく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし 耳を鈍く、目を暗くせよ。…」わたしは言った。「主よ、いつまででしょうか。」主は答えられた。「町々が崩れ去って、住む者もなく 家々には人影もなく 大地が荒廃して崩れ去るときまで。」…なお、そこに十分の一が残るが それも焼き尽くされる。切り倒されたテレビンの木、樫の木のように。しかし、それでも切り株が残る。 イザヤ書 6章

 イザヤ書6章。イザヤが神様から呼ばれて、預言者としての働きへさらに引き出されるシーン。アブラハムの子孫たちは、「神を直接見るようなことがあれば死ぬ」と幼い頃から教えられてきたので、イザヤが神の聖さを間近にした時に、命を取られると思ったのは当然のことでした。読むと気付きますが、イザヤは預言者でありながら、自分を神の側にある者とは考えられずに、向こう側の滅ぼされる者としての自己認識をもっていたようです。想像するならば、印籠を出した水戸黄門の向こうに助さん、格さんも民衆と一緒に頭を下げているような有様でしょうか。しかし、それこそが彼の預言者たる資格のようにも思えます。どんなに優れた批評でも、なお自分もその流れの中にあることの悲しさを知らずになされるのでなければ、傲慢が残るだけなのでしょう。イザヤは神に口に触れられ赦されて、語る者とされました。そして、上記箇所。神の呼びかけに応えました。しかし、神の言葉続きます。民の耳は聞かず、目は見られず、心は開かれないと。あー辛い、辛い。こんな果てのない徒労に誰が耐えられるでしょうか。「主よ、いつまででしょうか」とイザヤが問うたのは当然でした。▲この後に起きたことは、この神の言葉の通りでした。アハズ王は、イザヤの忠告を聞かずにアッシリアを頼りにして、一時の解放と多大な損害を受けます。ゼカリヤ王は、アッシリアを退けましたが、忠告を聞かずエジプトを頼りとします。人は絶望していない時には言葉が届かず、絶望した時には自分の力に頼る者のようです。しかし、歴史は切り倒されて何も残らないと思われる木のその切り株にいのちを見出す人々よって、作られてきました。切り株を見せられるとか、その上に立たせられるということは、なお神よりの希望をいただけるその場なのだと知りたいのです。



2014年10月19日

「問い」

犬塚 契牧師

 ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。   マルコによる福音書2章18−22節

 年に一度の贖罪日にするはずの断食を週に2度行うようになった人々がいました。ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々でした。彼らは日が昇ってから、沈むまで食事をとらなかったようです。自分が正しいことをしている時はどうしてもそれだけに専心できずに、人の有様が目に入ってくるというのは避けがたい誘惑なのでしょうか。どうしても、人がウツルのは、本当の喜びを知らないからなのでしょうか。癒され難い、不自由さを感じます。「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか!!」…私が生きているのは、遠からぬ所です。もう一方でこんなことを思います。同じ質問をマタイは、ヨハネの弟子の問いとして書いています。この時、バプテスマのヨハネはすでに逮捕されていました。荒野で野蜜とイナゴを食べていた師匠は、すでに暴君ヘロデ・アンティパスの手中でした。そう考えるとヨハネの弟子の祈りや断食は、人や神へのアピールためでなく、それ以上のものがあったのではないかと思います。。断食は神に真剣に問い、答えていただく時にもなされました。考えれば彼らは断食を繰り返す以外にないようなところを生きていたのではないかと「なぜ、あなたの弟子は…」という問いは、言換えれば、「この他にどんなできることがあるのでしょうか。」という絶望の淵の祈りに思えるのです。無意味に繰り返してしまうような悲しみに変わるものがあるのでしょうか。イエスキリストの答えは、不思議です「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。」あきらかに自分を花婿として、人々に顕示しました。700年前に預言者イザヤはかつて「花婿が花嫁を喜ぶように/あなたの神はあなたを喜ばれる。」(62章)と語っていました。イエスキリストは彼らの詰問に似た問いに、全存在をもって応えられたのです。出来事の中にあって、なおなお共なる神の姿とその喜びを示したように読みたいのです。



2014年10月26日

「天に上げられた復活の主」

犬塚 修牧師

 「イエスは彼等が見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」 <使徒言行録1章9節>

 使徒たちは「いつ国が建て直して下さるのですか」と、主イエス様に尋ねている。それに対して主は「時や時期はあなた方の知るところではない」と答えられた。いつ、どのような形で国が再建されるかは、主の主権にゆだねる事であって、私達が計画したり、思い悩む事ではない。私達に求められているのは、聖霊を受ける事である。聖霊の力によって私達は世の悪と誘惑の力に抵抗し、戦い抜く事が出来る。聖霊に満たされるためには、通るべき道があると思う。列王記下2章には、エリヤに与えられた聖霊の力と権能はエリシャに受け継がれる記事が記されている。その力を受けるまでに、エリシャは4つのステップを踏まねばならなかった。@ギルガル(転がる)…エリシャは自己中心的な考え方から離れ、神中心の生き方を選び取らねばならなかった。「転がる」とは古い価値観からの解放、また転倒であった。Aべテル…とは「天の門」である。父や兄を裏切り、天涯孤独となったヤコブは、このべテルという岩山で神と出会った。神は不安と恐れに満ちた彼を赦し、生涯の祝福を約束して下さった。Bエリコ…出エジプトを果たした神の民は、まだ弱い軍隊であったが、彼らの本当の戦いの武器は武力ではなくて、神への賛美であった。この賛美によってエリコの町は陥落したのである。Cヨルダン…とは「速やかに下る」の意味である。聖霊の力を受けるためには、謙りが求められた。自分の無力を正直に告白し、神にギブアップ宣言をするのである。この四つ(価値の変容ー主との出会いー主への賛美ー謙遜と従順)を経て、聖霊は下られるのではないだろうか。 天に引き上げられる主を、弟子たちはジッと見つめ続けた。彼等は、その凝視の中で、絶対的な勝利を獲得された全能の主として信じたのである。その眼差しは、信仰と希望の目であると同時に、彼等の悲しみや弱さも含むものでなかっただろろうか。なぜならば、この「見つめる」という動詞はルカ22:56に用いられているからである。一人の女中が、主イエス様を裏切ったペトロを責める目でジッと見つめていたが、その同じ動詞がこのイエス様の昇天の時にも使われている。ゆえに「見つめる」とはペトロが受けた侮辱や心の傷、罪悪感や深刻な自責の念をも併せ持って、見上げたのではないかと思う。しかし、主は彼のすべての罪を背負って、天の唯中にまで突入して行かれた。そこには完全な罪の赦し、完全な支配があった。ゆえに彼等は完全な神の支配と力を信じる事ができたのである。そして、彼等の心は平安と感謝に満ち溢れたのである。





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