巻頭言
2012年10月


2012年10月07日

「美しき人」

内藤 容子

  乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。 <イザヤ書53章2〜5節>

 主の前には若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った、命の象徴として表現されるイエスは、人から見たら「見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない」姿だった。人ごみの中にいたら、間違いなく見過ごしてしまうだろう、一見パッとしない男。赦されざる罪の結果として生まれ、人々から軽蔑され差別された少年。病気や危険と隣り合わせの大工。そして、罪人や病人と関わることで、その悲しみや痛みを恐れず共に味わった変わり者。最後には、無実の罪ですべての人と、なんと父なる神からも見捨てられた神のひとり子、それがイエスキリスト。もちろん、彼を慕い、付き従う弟子たちもいたが、最後の時には彼らさえイエスを置いて逃げ出した。彼は生まれた時から死に服するその瞬間まで、罪人が受けるべきすべての負債ー罪の結果であるあらゆる病、あらゆる痛み、死ーを負い、彼自身は罪を犯すことはなかったが、罪人となられた。人は、彼は彼自身の罪の故に打たれていると誤解したが、本当のところ、イエスキリストの生涯の悩み、苦しみ、悲しみ、痛み、傷、病、死のすべては、彼が原因ではない。それはただ、罪人が本当の平安、神との和解を手にするための身代わりの生であり死であった。罪からくるすべての傷の解決をもたらすためにはなんの罪もない、神であると同時に人であるイエスの身代わりの死のほか方法がなかった。ただ、罪人を救うために、人となり、罪人となり、懲らしめを受け、身代わりの死を遂げてくださった歩みこそ、救い主なる神のみわざである。人の罪ゆえ、この世には自分ではどうにもできない事柄、逃げ出したくなるような様々なことがある。傷を受け、傷を付ける関わりから逃れられない。そのため、人が遠ざかり、孤独を覚えるかもしれない。しかし、生きることの困難を覚える時、そこにこそ、それらすべてを味わわれた美しい神の姿がある。  ♪その身に罪を引き受け 孤独と絶望背負い それでもなお十字架につき 罪人の代わりにいのち差し出す この世界で一番美しいもの それはこの人のこの姿。



2012年10月14日

「キリストの恵みによって」

犬塚 契

  人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。 <ガラテヤの信徒への手紙1章1-2節>

 なんて雑で、無礼で、無愛想で、乱暴な…ガラテヤの信徒へ書かれたパウロの手紙の書き出し。あらゆる問題が起きていたコリントの教会にすら「コリントにある神の教会へ」と「神の」と形容しているのにも関わらず、ガラテヤの教会には「ガラテヤ地方の諸教会へ」と言い放つだけである。パウロが好んだ「召されて」も「聖なる」も「愛され」もない。パウロの怒り炸裂。その理由は、パウロがガラテヤの人たちに伝えた福音(1コリント15章3-9節)に混ぜものをし、変質させ、律法も割礼も必要だと説き、パウロが使徒であることも否定したグループが徘徊していたからだった。そして、ガラテヤの教会はまんまと心を変えてしまった。イエスキリストの出来事が低く見積もられ、行いによる人の手柄が高く上げられる有り様は、サウロ(大いなる者)からパウロ(いと小さき者)への歴史を辿らされた彼には見過せないことだった。パウロがこの混ぜ物にノーと言わなければ、ルターの宗教改革もなかっただろうし、今の教会もきっとなかったと思う。▲「人々からでもなく、人を通してでもなく」と人が絡む要素をあえて消して、「神の前に立つ私、パウロ」「イエスキリストにのみ贖われた私、パウロ」の実存が全面に出る強い書き方。もちろん、続けて「わたしと一緒にいる兄弟一同」とあるから、彼の歩みに人の助けがなかったとか、一人で生きてきたと思っているわけではないのだと思う。それでも、人は神に贖われ、救っていただかなければならぬ自分を生きている。人には人は救えない。イエスキリストの恵みしか届かぬ心の奥がある。何がしかの自分の一切が脱ぎ捨てられ、キリストの前にある我に混ぜ物はいらないと、ただ恵みだけであると、1章は教えてくれる。



2012年10月28日

「すべてはキリストの内に」

犬塚 修

 知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。 コロサイ2章3節

 人は一人では生きていくことができない。必ず人の助けと温もりを必要としている。パウロも人の理解と共感、そして特に祈りを渇望していた。また「神の秘められた計画」とは何か。それはキリストご自身とある。私たちは将来に対して不安と恐れを覚える時がある。果たして大丈夫か?と嘆息する。だが、心配する必要はない。キリストがみ心を成し遂げられるからである。まだ計画は秘められていて明らかではないが、愛と義という最善の道が敷かれていると心から確信しよう。 さらに、私たちはより良く生きるための知恵と知識を必要としている。だが、それを神から離れた所に求めることなく、キリストから得ることが肝要である。この世界には様々な反神的、背信的な思想がよどんでいて、悪影響を知らず知らずの内に受けてしまう。ゆえに何よりも聖書のみ言に向かうことが重要である。 夜明け前に道を歩いた時、満天の星が輝いていて感動した。しかし、半時間のすると、あっという間に空は明るくなり、無数の星は見えなくなった。星は存在するのに見えないだけである。私たちの人生も同じである。たとえ、肉眼では見えなくても、神の恵みはいつもある事を信じて生きよう。 マタイ13章に「隠された宝」が記されている。農夫が畑を耕していたところ、何と宝を掘り当ててしまった。そこで、彼は全財産を売り払って、その畑を買った。それは賢い見事な決断であった。私たちは無尽蔵の宝であるキリストをすでに得ている。キリストの中にはすべての恵みが隠されてある。私たちが日々、行くべき所はこのお方以外にはない。





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