巻頭言
2011年10月


2011年10月02日

「地に生きる」・・・先週の説教要旨

犬塚 契

 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」 ルカによる福音書 18章9-14節

 徴税人という同胞から嫌われた仕事の苦しみをイエスキリストはよくよくご存知だったのだと思う。神殿から遠く離れて辛うじて立ち、通常の手を上げての祈りではなく胸を打ちながら祈ったこの人を想像する。どんな事情、いきさつでその仕事に就いたのか、養われている家族が何人なのか、徴税人を続けることの困難、辞めた後の生活の糧の心配、余計に徴収した賠償の額、賠償する人を探すことの可能性…。後ろにも前にも進めない。辞めるに辞められず、戻るに戻れず、前を向くにも向けない。ただただ、やっぱりよろよろとその場に立ち、祈るしかなかった。なんとなくこの徴税人の気持ちが分かるのは、度々私たちもこの八方塞がりや閉塞の事態を経験するからではないだろうか。何の決断もできずじっと時が経つのを待ったり、外から風が吹くのを望んだり、こじ開けようと模索したり様々だと思う。その時にやはり胸を打って祈る者でありたい。イエスキリストは、切に神の前に祈ったこの人を指し、神と和解したのは彼だったと語った。彼がこの後、仕事を続けたとか、辞めることができたとか、賠償は解決したとか、書かれていない。それでも、神の義の先行とその宣言があって、救いのプロセスは始まったのだという福音をこのたとえから聞く。キリスト信仰を持つ者は真にこの祈りに至る時にはじめてイエスキリストの十字架が迫るのだと思う。うろうろするその場でまず祈りをもって立つ者でありたい。



2011年10月09日

「走るべき道」・・・先週の説教要旨

犬塚 契

 主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』       ルカによる福音書 19章17節

 今日の「ムナのたとえ」の前の箇所、エリコでの群集の熱狂を見るといよいよイエスを王として祭り上げようとする機運が高まっていたように思う。エリコはエルサレム入場前の最後の経由地となり、このたとえを語った後に、イエスキリストの生涯、最後の一週間が始まる。エルサレムは1000年前のダビデ王以来、イスラエルの都であり、この場所にイエスが入城し、王として即位し、やがて独立国を再び立ち上げることは彼らの悲願だった。イエスキリストが「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。・・・」と語り始めた時、彼らの心は躍っただろうか。やっぱり、そうですよね。そのつもりですよね!!とうなづいて聞き始めたと思う。しかし、たとえの中では王はすぐには帰ってこない。僕たち10人に10ムナを預けて、国を留守にしてしまう。王はみんなで商売することを望んだのかも知れないが、彼らはそれを分ける選択して、10ムナを分け一人1ムナとなった。およそ60万円くらいのものだろうか。マタイのタラントのたとえとは違い、商売するにはとても足りなさそうな金額だった。それでも、王が再び来るときまで待ち、預かったものを十分用いようとした僕たちの姿が描かれる。1一人は10ムナまで増やし、もう一人は5ムナまで増やした。資産を10倍にするには長い時間が必要だったに違いない。王が帰ってくるのを一日千秋の思いで待ち、その王に喜んでもらおうとするその心、その希望、その信仰こそ大切なのだとイエスキリストは言われた。▲すぐに明らかになった。群集たちが望んだような新しいイスラエルという国が待っているわけではなかった。イエスキリストは十字架にかけられた。しかし、復活し、弟子達に希望を与えた後に、宣教を委ねられ、ふたたび天に上げられたのだった。地の上では、また来られる時まで不在になった。小さな信仰によって神のみ業を見る以外方法がなくなった。「再臨」はイエスキリストの伝えられた大切な教えである。何に対して、誰に対して、どの方の前に生きているのか。やがて来られるイエスキリストの喜ばれる歩みをするものでありたい。



2011年10月16日

「神の権威」・・・先週の説教要旨

犬塚 契

 イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』 ルカ20章17節

 イエスキリストの最後の一週間は、神殿で商売人を追い出すところから始まった。ユダヤの男性達が収めることになっていた神殿税は、シュケルという決まったお金でなければなかったが、両替商たちはその際に暴利を得た。神殿に捧げる犠牲の動物もまた、傷のない検閲済みのものとして、通常の15倍の価格で販売した。境内でそのことを許す黒幕には宗教的指導者たちの姿があった。方々から集う礼拝者たちが遥かの旅路を経て礼拝を捧げようとするときに、まず出会うのは“強盗の巣”のような神殿の有り様だった。イエスキリストはそれに怒ったのだ。“彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』/ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」”▲あくる日、指導者たちはイエスのもとにやって来て言った。「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか」。なんだか紳士的にも聞こえるこの言葉は、本当は「言え、言え、言ってみろ」という激しい言葉だ。「おいおい、田舎出の、なんの学もない、なんちゃって先生よ!お前の権威はどこだよ。」という怒りと嘲りがあった。イエスキリストは質問に質問で返された。「イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」▲恐らく信仰の事柄とは、ふと疑問が浮かんで質問し、教えられて、はぁーなるほど!と分かるのとは違うのだろう。神を知ろうとするに無傷ではいられないだと思う。自分が神に問う以上に自分自身が神から問われているのだ。あるのは人間主体の神のチョイスではなく、やっぱり神の語りかけであり、福音は迫りなのだと。「信仰心持つことが大事」とか「何でも頼るものがあるのはいいもんだ」でなく、イエスキリストの十字架と復活といういよいよ明らかにされた神の壮大な計画の迫りがあり、その前で、問われ、さらされる自分の姿がある。宇宙を加速度を増して広げるよりも、神にとっては罪人の私を赦すことのほうが時間が必要で、遥かに難しかったのだと聖書を通して知る。そこまでの計画があっての迫りであるならば、ひざを折る以外の方法が見当たらないのだ。それの繰り返しが信仰生活というのだろう。▲建築のプロが捨てた石。こんなのいらない、使えないと。すべてば相対的な移り行く世界にあって、確かな土台とは、隅の親石とはイエスキリストであることを喜ぶ一週でありたい。



2011年10月23日

「すばらしい恵み」・・・先週の説教要旨

犬塚 修

 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。     マタイによる福音書 20章14節

 朝早く6時から12時間、働いた労働者と、夕方の5時から1時間しか働かなかった者とは、賃金に大きな差が出ても当然である。もし、そうでないならば、社会生活は不合理なものとなり、あらゆるものが混乱する。しかし、神の国の法則はこれと異なる。 1時間の労働でも、彼が受け取った賃金は12時間の人と同じ1デナリ(一日分の正当な賃金)であった。なぜそのようになったのか。それは無尽蔵の神の愛に秘密が隠されていた。社会では律法主義や完全主義に傾き、生きる厳しさだけを強調されることがある。そして「もっと働け」とか、「努力が足りない」と厳しく責める。しかし、どんなに能力があっても働けない人もいる。私たちを毒するものは、悪しき差別・競争主義、冷たい弱肉強食の進化論的な考え方、ゆがんだ比較主義である。それが殺伐とした冷たい世の中をもたらすと思う。神は私たちを一方的な恵みの世界に招いておられる。神は私たちの厳しい現実を理解し、また心の痛みの深みまでも御覧になる。一日中働けなかった彼の悲しみや苦しみを察し、そこに温かい救いの手を差し伸ばされる。彼は思いもかけない恵みの多さに驚き、感謝にあふれた人となったと信じる。一方、朝6時からの人は、主人が示した恵みを理解しようとしない。彼は自分と夕方の5時からの人を比較して「もし彼が1デナリなら、自分はその何倍のはず」とひそかに計算した。だが、主人との契約は1デナリであった。彼はその契約を重んじ、感謝して納得すべきであったが、安易に比較したことで、激しい怒りとねたみを抱いた。ねたむと心から平安は失われ、感謝を忘れ、不平が湧く。実は、彼自身が働くことができたことも、主人の恵みであったが、その事実を忘れ、得た報酬を自分の当然の権利と考えてしまった。神はえこひいきされない。すべての人は神に愛されている。大切なことは主の恵みに感謝して生きることである。自分の限界や弱さを痛感しつつ、主に対する感謝に生きるならば、豊かな祝福を満ちて生きることができる。「今や恵みの時、今こそ救いの日」(第二コリント6:2)



2011年10月30日

「あなたがわたしと共に」・・・先週の説教要旨

犬塚 修

 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ憩いの水のほとりに伴い魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖それがわたしを力づける。詩編23編

 かつて羊飼いであったダビデが年老いてからの詩。150編ある詩編の中で最も美しいといわれ、暗唱する人も多く、歴史の中で様々な立場の人を励ましてきた。▲「主は羊飼い、わたしは何も欠けることがない…」ずいぶんゆとりあり、裕福で、幸せな人がいるのだなぁと・・・。しかし、この詩の背景は「アルプスの少女ハイジ」のような広い抜けるような空と青々とした大地に、ゆっくりゆったりのんびりと羊が横たわるようなのどかなものではない。パレスチナの赤茶けた大地が青草が生えるの時期は2〜3か月だけで、あとは乾季となり乾燥した大地と変わる。水も豊富にかしこに湧いているわけではない。羊飼いに信頼を寄せていなければ、生き得ない羊の姿がある。ダビデは羊飼い時代の激しい毎日と自分の人生を重ね合わせて振り返っただろうか。どこに青草があるのかというような大地で、どこに水が沸いているのかという恐れの中で、確かに羊飼いである主は「青草の原」に、「憩いの水のほとり」に伴ってくださった。容易に見つかる日も、また辛うじて見つかる日もあった。いつかは、「死の陰の谷」を行く時もあった。それでも主は導いてくださったではないかと。▲23章はすべてを何不自由なく手にした老人の自讃でなく、自分が迷いやすく、虚弱な、頑迷な羊であることを認め、だからこそ、たとえ死の陰の谷を歩もうとも他の何でもない、主ご自身に希望をおく以外に生きる術を見出せなかった、見出さなかった人の告白だと思う。私たちの生きる抜き差しならない現場の中で、その立たされている場が厳しければ厳しいほど、神の言葉が現実性を失っていくのでなく、ますます主をしかるべき場所、歩みの中心に据え、更なる希望として羊飼いとなって迎える者でありたい。生身の人間が生きている。生身の人間がこう祈るから、こう告白するから、こう言い切るから、神は喜ばれるのだと思う。


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