巻頭言
2008年10月


2008年10月5日

「苦難の僕」

牧師 犬塚 契

彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛 みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打 たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたし たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたし たちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはい やされた。…多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成し をしたのは この人であった。 イザヤ書 53章

イエスキリスト誕生の500年近くも前に書かれたメシア預言。馬 に乗って、力強く、勇ましいはずの救い主のイメージではなく、 描かれているのは、「見るべき面影、輝かしい風格、好ましい容 姿」もない苦しみを受ける救い主だった。旧約聖書を研究してい た人たちの中で正確にそのイメージを理解できた人は一人もいな かった。自分たちの救い主が、弱々しく苦しむという不愉快で、 不可解な預言は、受け入れ難いつまずきともなった。「私達の救 い主は、もっと強くあるべきだ」。▲その預言から数百年が過ぎ 、キリスト誕生とその歩み、十字架と復活の出来事がある。人類 の歴史は、その人を中心に二つに分かれた。恵みをいただき、憐 れみを受けて、この十字架に架けられたイエスキリストの歩みに 神様の計画を見て、慰めを受ける。▲大胆にもパウロは、弱い時 にこそ強いと信仰告白した。『すると主は、「わたしの恵みはあ なたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」 と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るよう に、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、 わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあ っても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは 弱いときにこそ強いからです。』



2008年10月12日

「誘惑に勝つ」

牧師 犬塚 修

女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいの です。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはい けない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はお っしゃいました」創世記3:2〜3

アダムの妻エバ(命)は幸せな楽園生活を続けていましたが、ある 日「魔が差す」瞬間が訪れました。「園のどの木からも食べては いけない、などと神は言われたのか」という蛇の誘惑の声でした 。神は「どの木からも」ではなく「善悪を知る木から」と言われ たのに、それを少し言い換えることで「神は厳格で愛のない主権 者」という洗脳を開始しています。もし、エバが信仰に立った女 性であったならば、すぐにその危険な場から離れ、蛇を無視した でしょう。しかし、彼女はうかつにも蛇と対話してしまいました 。悪魔は人間よりもはるかにずる賢いのです。少しづつ、エバは 罪の世界に誘われていきました。内心「神は厳しいお方で、私達 を幸せにしたくないのかもしれない。ならば私は自分の賢さと知 恵で生きよう」と思ったのです。また、自分勝手なみ言葉の解釈 をして「触れてもいけない」とあえて付け加えたり「死んではい けない」と自分中心的な理解をしました。本当は、神は「決して 食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(2:17)と強く 言われたのです。エバはみ言葉からずれていきました。大切な事 は、思い切ってこの蛇を断罪し、より遠ざかるべきでした。祝福 される人生は、私達の決断一つにかかっています。神のみ言葉を 素直に受け入れ、ひたすら主を礼拝して生きる事です。それが命 の木の実を豊かに味わう道です。神の言葉を無視したり、自分勝 手な生き方をしないで、神のみ言葉を誠実に実践して生きたいも のです。



2008年10月19日

「わたしは神であり、わたしのような者はいない。」

牧師 犬塚 契

思い起こせ、初めからのことを。わたしは神、ほかにはいない。 わたしは神であり、わたしのような者はいない。  イザヤ46:9

エコーに写った直径2mm程度の小さな輪が、新しい命の誕生の証 拠だと妻が報告してくれてから、私の支度などお構いなしに順調 に成長してくれた。妻は、次第に形作られていく胎児と変わって いく自分の体を感じながら母になる準備をしていった。会員にな ったベビー用品専門店から届くお得なダイレクトメールは、妻の バックにしまわれた。頂いた本、購入した本をよく読んで、私に 要約を話してくれた。検診の度に「あぁ、この子は心配いらねぇ んだ」と言われるのにも慣れた。「そうか、そうか」と誇らしく 思った。モニタの曲線グラフは、平均よりも少し大きい元気な子 を映していた。やがて、最新の3Dのエコーで顔の輪郭まで見え るようになった時に、血圧が上がりすぎて胎児に栄養が届いてい ないといわれた。薬を服用してもなかなか下がらなかった。右肩 上がりだったモニタのグラフの成長は少しゆっくりになった。 「この子はちょっとチビだな」と先生が言った。予定日よりも1 1日早く陣痛が来た。病院に行くと破水していることを知り、そ の日に入院した。晩に電話があり、血圧が上がり過ぎで母体が持 たないことと、胎児の力が弱いことを告げられて、帝王切開する ことにするとのことだった。午後10:30に執刀と聞いたのに、泣 き声はその前に聞こえてきた。先生、フライングだ。「2086gだ けど、死にそうになると必死で大便をするからその分痩せたんだ 。心配いらねぇ」と説明された。生涯で初めてメスが入った妻は 、震えが止まらなかった。微かに微笑んでくれたから、意識があ ることが分かった。翌朝、腫れた妻の顔をみて、命を削って産ん だことを知った。保育器に入った子を見ていると、パピルスの籠 に入れられたモーセを思い出した。極めて不安定に見えて、しっ かりと神の御手の中にある。



2008年10月26日

「召天者記念礼拝を迎えて」

牧師 犬塚 修

これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によっ てキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望してい ます。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは 利益なのです。                  フィリピ2:20〜21

パウロにとって、死は憧れてやまない天国への旅立ちでした。そ れは第二の新しい人生の門出であり、凱旋でした。死を直前にし た時「しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え 忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。わ たし自身は、既にいけにえとして献げられています。…わたしは 、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守 り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判 者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。 しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む 人には、だれにでも授けてくださいます。」(Uテモテ4:5〜8)と しみじみと語っています。生と死の両方を受容しているパウロの 成熟した信仰に心打たれずにおれません。M・ル-サ-・キング牧 師は暗殺される前夜「私は確かに見た。かなたに輝く神の国を! 」と語っています。そこににじみ出ているのは、キリスト者とし ての静謐な平安と喜びです。この世以上に、天国は更にすばらし い世界です。そこに私達はやがて行くのです。ただイエス様を信 じる信仰のゆえに。「御使はまた、水晶のように輝いているいの ちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御 座から出て、都の大通りの中央を流れている。…神と小羊との御 座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、御顔を仰ぎ見るの である。彼らの額には、御名がしるされている。夜はもはやない 。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そし て、彼らは世々限りなく支配する」(ヨハネ黙示録22:1〜5)





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