巻頭言
2007年10月


2007年10月7日

「教育と平安」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わた しはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな 。おびえるな。  ヨハネ14:27

この世が与える平安とは、状況が好転することや物事がうまく運ぶ などによるのではないでしょうか。それに対して、主が与える平安 は、現状の好悪によらず、何が起ころうとも「OK!」と断言する 信仰から生まれます。どのようにしたらこの平安を持てるのでしょ うか。その一つの方法はこれまでの考え方を一変することです。た とえば、ひとつの例として、「人の行動に関して、自分は責任をと らない」と心に決めることです。私たちはどうしても愛する人の問 題で悩みます。「一体どうしたら良いのだろうか…」と悶々としま す。しかし、どんなに悩んでもどうすることもできません。そのう ち疲れ果ててしまうのです。私たちは相手の行動に変化をもたらす 事は不可能です。ところが「何とかしないといけない」と焦ったり 、思いつめたりして苦しみ「自分はやるべきことを何もできていな い」と自分を責めます。しかし、これはサタンの罠です。すべてを 主の大きな御手に任せ、苦しむことを放棄してしまうことです。た とえサタンがすぐに「それは無責任というものだ。お前のせいだ」 と非難しても気にしてはなりません。私たちは人の行動や感情を変 える力と強さを持ってはいません。それは神の働く未知の分野です 。もし自分が責任を自分がとろうとすると、欝状態に追い込まれま す。 まさに「あなたのなすべきことを主に任せよ」です。



2007年10月14日

平和を得ていますか

牧師 犬塚 修

わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イ エス・キリストによって神との間に平和を得ており   ロマ5:1

自分の思いや願いと異なる不都合な出来事が起こると、私たちとの 心には不安と動揺が走ります。そのうち「どうしょう…。困ったも のだ」とパニックにならないでしょうか。それが「のどに刺さった 魚の骨」のように感じられます。さらに世に出ていく事がおっくう になり、また自信も失せ去り、すべてが怖く感じられるのです。そ のような状態にあると焦り、絶望感、無気力さが襲います。このこ とでの解決策は、その不安の正体を突き止める事から開始します。 不安はもののとらえ方から生まれます。もし、私たちが他人の評価 を絶対的なものとして安易に受け入れるなら、歩みは不安定なもの となります。この誤った「絶対主義」を打ち壊す事です。たとえば 「成績絶対主義」「結果絶対主義」等という偶像を捨て去る事です 。どうして、他人の評価で自分の無限の価値が決定されて良いでし ょうか。断じてあってはなりません。私たちの値打ちを決定できる のは神のみです。そしてこのお方は「あなたは私の目に高価で尊い 」と宣言されるのです。「私たちが義(正しい)とされる」のは、 自分の「優秀さの誇示、成績の良さ、能力の高さ」等によるのでは ありません。ただ信仰によるのです。「すなわち、イエス・キリス トを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。 そこには何の差別もありません」(3:22)主信仰とは主への絶対的 信頼です。これはすべての人に提供されている神の最高の贈り物で す。それを得た人は平和に満ちた勇敢な人生を必ず踏み出すように なります。



2007年10月21日

「マリヤの一生」

牧師 犬塚 修

身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからで す。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう。 (ルカ1:48)

イエスの母マリヤの一生を顧みますと、筆舌に尽くし難い苦労の多 さに胸打たれます。少女時代から、年老いるまで数多くの苦難や試 練がありました。心に剣が突き刺さるような激しい痛みも体験しま した。「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。――多くの人の心 にある思いがあらわにされるためです。」(ルカ2:35)外面的には、 シンデレラ物語のような人生ではなく、誰にも知られないひっそり としたものでした。しかし、マリヤは「おめでとう、恵まれた方。 主があなたと共におられる。…恐れることはない。あなたは神から 恵みをいただいた」という尊敬に値する信仰者、また神に深く愛さ れた人でした。人の本当の価値は人の目には隠されています。谷間 に咲く小さな花は誰の目にもとまらず、わずかの短い命かもしれま せんが、神はその価値と美しさをご存知で、心から喜びほめて下さ います。私たちは神のみ前にあって尊いのです。マリヤは一徹した 神信仰のゆえに無限の価値を与えられたのです。私たちは現代世界 に生きるマリヤのような存在とされているのではないでしょうか。 「太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず、月の輝きがあなたを 照らすこともない。主があなたのとこしえの光となり、あなたの神 があなたの輝きとなられる。あなたの太陽は再び沈むことなく、あ なたの月は欠けることがない。主があなたの永遠の光となり、あな たの嘆きの日々は終わる。」(イザヤ60:19〜20)



2007年10月28日

「信仰と行い」

牧師 犬塚 修

わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。け れども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が 、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。 信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。 へブライ4:2〜3

私たちは主イエスを信じる事によって義とされるという信仰義認の 教えを信じています。これが救いに至る唯一の道です。しかし、救 いに与ったのちは、第二段階に入ります。それは聖化の道です。聖 化は、枝(信仰)がもたらす美味しい実(聖霊の実)に似ています。信 仰は従順な行いによって、麗しい心の成熟に向かうのです。私たち が人生の様々の出来事によって、古い自分が葬られ、また多くの束 縛や強迫観念から解放されて、魂が清められていく事はすばらしい 恵みです。聖化によって私たちはキリストに似た人格へと成長をと げていきます。ゆえに頭で信仰を観念的、抽象的に理解するのでな く、体で実践し、行動して表現していきましょう。主の兄弟ヤコブ は「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(ヤ コブ2:17)と記しました。私たちは行いによって自己犠牲的な生き 様を選びとります。それはやりがいのある戦いです。またそれによ って信仰は飛躍します。「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流す まで抵抗したことがありません。…わが子よ、主の鍛錬を軽んじて はいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。 」(ヘブライ12:4)とあります。新しい自分を造り変えられたいもの です。





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