巻頭言
2006年10月


2006年10月1日

「礼拝と伝道」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

「イエスは彼らに近づいてきて言われた「わたしは、天においても地 においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがた は行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって 、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのこ とを守るように教えよ。」
マタイ28:18〜20

今月は「伝道」の重要性について学び、また実践していきましょう。 この箇所では3つの点を教えられます。
(1) 主が私たちに近づき、語りかけられる----弟子たちはこの世の 悪しき者たちを恐れ、臆するような生き方をしていましたが、主は彼 らを見捨てず、ご自身が助けるために近づかれました。そこでついに 彼らは自力で生きることを断念し、主の大きな力により頼む人に変え られました。主の恵みが先行しているのです。
(2) 権威は主にある----自分の力に権威があると勘違いすると、無 理を重ねて権威を行使しようとします。「私が成さねばならない。私 が行かねば…」と自分を追い込みます。だが、権威は主にのみあるの であり、私たちは主のしもべにすぎません。たとえ自分は何一つでき なくても、主が他の者を用いてでもご自身のみ業を完成されます。ゆ えに安心して生きて良いのです。
(3) 守るように教えよ-----ここには「導け」とは記されていませ ん。人を変え、導く事は困難です。それができるのは主だけです。私 たちはただ教えるだけで良いのです。その結果、どんな事に導かれる のかを祈り、期待し、すべてを主に委ねましょう。



2006年10月8日

「主よ、ご存知でしたか。」

牧師 犬塚 契

「わたしたちは、神にはありのままに知られています。」 Uコリント5章11節

聖書が神の言葉であり、生きているということが本当だって、思い始 めたのはいつ頃からだったか?全然、わからないところから、おやっ と思い始め、なるほどと感心し、グっときて、心を見られているよう に感じ、「主よ、ご存知でしたか」と答えざるを得ないようにされて いったように思う。それは、イエスキリストを信じる者の醍醐味であ り、特権、恵みである。ただの言葉ではなく、自分に与えられた言葉 として、受け取ることができるようになるから、されるから、不思議 であり、神の業であることを思う。▲基本的に、「霊的スランプ」と か「霊的ダウン」とか、信仰者自身が決めたりすべきことでも、出来 ることでもないと思う。何か基準があるわけでも、テストあるわけで も、私達は神でもない。ただそんな「感じ」の域をでない。99匹の羊 を残し、1匹を追う神が「離れる」わけはない。ならば、かりに「ス ランプ」というのがあるならば、「主よ、ご存知でしたか」の欠乏な のだと思う。御言葉に親しんでいきたい。蓄えていきたい。何度でも 、「主よ、ご存知でしたか」と膝を折っていきたい。それを祈り、願 わされた先週。



2006年10月15日

唯一の神にのみ頼る

牧師 犬塚 修

「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたに は、わたしをおいてほかに神があってはならない。 出エジプト記20:2〜3

もし、私たちが神以外のものに重きを置きますと、心は疲れ果て、人 を裁く思いが湧いてきます。一例として、自分の願望や理想に執着す ると、これらが支配権を握り始め、そうならない現実を憎むようにな ります。それは「自分の理想」というものを偶像化している状態とな らないでしょうか。「〜であるべきだ。それなのに、全くそうではな い」という苦々しさや怒りが頭をもたげます。そして「あなたのせい だ」と責めるようになるのです。人間には数多くの限界があり、また 人が行いはすべて不完全です。完全なものを提供されるのは神のみで すが、私たちはどうしても人の助けに依存する面がある気がします。 人が何をしてくれたかを考えます。出来事を生じさせ、完成に導くの は神です。このお方が私たちのすべてを治めておられるのです。たと えどんなことが起ろうとも、現実をそのまま感謝して受け入れ、主の 救いのみ業が実現されることを信じる事です。「定められた時のため に、もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ 。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは 必ず来る、遅れることはない」(ハバクク2:3) 人に求める以上に、主 に期待して生きたいものです。



2006年10月22日

「担ぎきれない十字架」

牧師 犬塚 契

「人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキ レネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。 」(ルカによる福音書23章26節)

イエスキリストは十字架を途中で降ろした。余りの重さに担いきれず 、倒れた。体力と気力の限界だった。イエス様がひとりで最後まで完 結したのだったら、私にはどこか安心しない部分がある。けれども、 イエス様は倒れた。担いきれず、倒れた。否、担いきれずというより も、あえて私たちのために倒れて下さったようにも思う。そして、キ レネ人シモンがゴルゴダまで十字架を担いでいった。そこにも私たち の救いがある。イエス様を義とするのは、神のみできる業だった。そ れは失敗ではなく、神のよしとする業であった。私たちにとって、失 敗に写ることが多くあるかもしれない。あの時のあの態度、いまだに 悔やまれる失態・・・人はそれぞれ失敗を抱えて生きているようにも思う 。普段、忘れていても、疲れ果て抵抗力を失った時にもたげてくる出 来事もある。けれども、私たちが失敗と思うような出来事を遥かに越 えて、神様は業を成される。わたしたちはひょっとしたら、自分が描 いたような、人生ではない、予定外、予想外の人生を生かされている かもしれない。突然の事故、愛する家族の病、好まざる不和、予期し ない反発を、いったいだれが想像できただろうか?けれども、神を信 じ続ける、神の言行一致を信じ続けるところが、私たちの言行一致で あり、弱さの多い者の歩みの義につながっていくのだと思う。



2006年10月29日

「情け深い心」

牧師 犬塚 修

愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらな い。 Tコリント13:3

最近再び「いじめ」の問題がクロ-ズアップされてきています。生徒、 また何と教師からのいじめも表面化し、その残酷さに心が痛みます。 「死ね、邪魔だ、消えろ」このような人間否定の言葉は命を殺す死の 毒に満ちています。いじめは集団で行うので、本人の加害者意識、罪 意識が薄められており、平気で繰り返すのです。いじめは重罪です。 イエス様は「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」(ヨハネ8:34) 「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を 満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよ りどころとしていない」(同44節)と語られました。いじめのむごさに 関して鈍感であったり、また自己保身、悪魔に操られてはなりません 。しかし、最も大切な事は、私たちの心に父のような強烈な支配権を 持つ悪魔の罠を洞察する事です。この悪魔が渡したちの心を悪へと誘 い、残酷な事をさせようとしているのだと主は鋭く指摘されました。 私たちに必要な事はこの偽りの父を否定し、憐れみに満ちたまことの 神を父として受け入れる事です。「わたしの言葉にとどまるならば、 あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、 真理はあなたたちを自由にする」(同3〜32節)





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