巻頭言
2005年10月


2005年10月2日

「地味で、ダイナミック」

牧師 犬塚 契

「地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。」列王記上19章

どちらの神が本物か!の証明だった。バアルの預言者450人VS主の預言者エリヤ一人。証明の仕方は簡単だった。いけにえを火をつけずに祭壇に置いておく、それぞれがそれぞれの神に祈り、聞き入れられてそれが燃え尽きれば、勝利。バアルの預言者450人は血を流しながら祈ったが何も起こらなかった。エリヤが祈るといけにえは燃え尽きた。それが18章まで…。そんな奇跡を目の当たりにした後、エリヤは怒った王女イゼベルから指名手配とされ、恐怖のあまり逃げ出す。「もう、十分です。私の命をとってください」とまで言う。養われて食べては飲み、食べては飲みを繰り返し、やがて主の前に出る。そこで、冒頭の聖書箇所の場面となる。「静かにささやく声」を聞いていく歩みが、「信仰生活」なのだと思う。かき消されてしまうかのような、声。耳を傾けなければ、聞こえないかのような、声。雑音が入りやすい環境と大きな声に耳が向く弱さ…。それらいっさいを認識しながら、なお主が語られることを聞こうとする者、主が伝えてくださったことをなんとか具体にしようと願いながら歩む者。神が愛することをあきらめない「この世」で、クリスチャンは、小さな信仰を働かせながら、主と共に生きる。



2005年10月9日

「奉仕と栄光」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

「そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるようにその足もとに置かれました。」詩篇8:5〜7

自分自身についてのセルフイメ−ジとても重要です。もし私たちのセルフイメ−ジが低いものならば、無意識的に滅びの方向に突き進むき危険性があります。どういう訳か、私たちは、不幸への道を選び取ってしまうのです。そして「自分はどうしようもないつまらない人間だ」という否定的な自己評価や「私ほどすばらしい人間はいない」という高慢さが、私たちを不安と動揺や混乱に陥れます。間違ったセルフイメ−ジを持つと不幸の種を捜し歩くようになります。一方、正しいセルフイメ−ジをもった人は、無意識的に幸福にいたる良い選択をします。ダビデは高いセルフイメ−ジを持っていました。彼は「栄光と威光を冠としていただかせ」られた自分を喜んでいました。彼は貧しい羊飼いでしたが、いつも広大な青空や夜空を見上げて、神の栄光を賛美して辛い生活さえも主に感謝をささげて生活していました。また、自分は神によって無限の栄光が賦与されていると信じていたのです。パウロも「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」(フィリピ4:13)と書いています。私たちに必要なものは良いセルフイメ−ジを持つ事であり、神に愛されている自分を強く自覚する生き方です。



2005年10月16日

「生活を楽しむって可能?」

牧師 犬塚 契

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。"霊"の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。」  1テサロニケ5章

ざっと斜め読みした本に、会社の「社畜」と生きるより、「家畜」と生きるほうが豊か、とあった。続けて、人は、仕事のできる者よりも生活を楽しむことを知っている者と一緒にいたいものだと…。うーん、自らの毎日を考えてしまった。性格か、力量か、限界か、先の段取りがつかないと私は人一倍焦る。口数は減るが、眉間のしわは増える。生活を楽しむどころの騒ぎではなくなる。加えて昨今の政治的趨勢も不安を煽り、世界的な災害には心が痛む。最近の口癖は、「人は泣きながら生まれてきたんだ」になってしまった。そして、そのように生きていくものだと…。そんなことを考え続けていると、上記の聖書の言葉がようやく心に届いた。現実は余り変わらない、それでも神が望んでおられることははっきりした。神がおられるとしたら、自分の担える範疇など小さくても構わないのだ。少しづつ信仰が働いてきた。祈らないから無力感は増す、感謝がないから不平が出る。歩みの中で度々、確認させていただくテサロニケの箇所で、「生活を楽しむ」ことの道筋をみたように思った。喜びと祈りと感謝を覚えて歩む一週間でありたい。



2005年10月23日

露のように臨む神

牧師 犬塚 修

親を失った者は、あなたにこそ憐れみを見いだします。わたしは背く彼らをいやし、喜んで彼らを愛する。まことに、わたしの怒りは彼らを離れ去った。露のようにわたしはイスラエルに臨み、彼はゆりのように花咲き、レバノンの杉のように根を張る。ホセア書14::4〜6

私たちがいかに弱く、罪の深く情けない者であったとしても、あわれみに富む主はそのような私たちをも愛されます。どうしようもない私たちであっても決して見捨てられません。神の愛は赦しの愛、永遠の愛です。「わたしは背く彼らをいやし、喜んで彼らを愛する」と宣言される愛の広さに驚きを禁じ得ません。私たちの信仰が危機的な所に立っていても、主は救いの手を差しのばされます。その証拠は思いもかけないさまざまな恵みの出来事が起こる事です。そしてついに私たちは「今、主は働いておられる」と気付くのです。ヨナは剛情な人であり、主の命令に背き、自分勝手に行動したにもかかわらず、主は彼を見放されず、なおも、愛をもって迫って下さいました。その見捨てられない愛に心砕かれたヨナはついに悔い改めます。その後、彼にはあざやかな救いの道が準備されていました。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(二コリント12:9)主の愛に感動して生きていきましょう。



2005年10月30日

罪と絶望

牧師 犬塚 契

「あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。」 へブル人への手紙 12章3、4節

パウロが書いた?それとも他の弟子たちだったか、へブル人への手紙の記者は今もって知られず…。それでも、言葉の数々が心に残る。「罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」。簡単に「アーメン」と言えないくらいの重たさがある。「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」というマタイの5章に関して、こんな文章を目にした。『…ある注解者は「心の貧しい者」を「絶望している者」と訳す。人間は簡単に絶望を認めない。しかし、絶望を認めるときに天の王国は近づく。』二つの聖句が頭をめぐる。「血を流すまで罪と戦う」ことと「絶望している者」の二つ。血を流すまでに罪と戦うとは、絶望を知っていく過程であるのではないかと…。そして、人が神であろうとすることをやめることが如何に難しいのかを教えられる。なお破れ多き者、崩壊に届く者が、「わたしはあってあるもの」(出エジプト3章)と自己証明される神の前にひざを折る時が必要に思う。早朝礼拝の前、多少なすべきことの準備があり、早めに着いた。終わったのでベンチで7時を待った。久しぶりに「座った」ように思った。向き合っていなかった課題が教えられた。静まって主を知ることをあらためて思った。





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