巻頭言
2004年10月


2004年10月3日

「教育と神の支配」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

「どうか、わたしの妹だ、と言ってください。そうすれば、わたしはあなたの ゆえに幸いになり、あなたのお陰で命も助かるだろう。」 創世記12:13

偉大な信仰の人アブラハムも、私達と変わらない大失敗を犯す事が分かり、ど こかホッとします。彼はユダヤ地方を襲った大飢饉のため、穀物が豊かにあっ たエジプトへ向かいました。そこで、大変な危険に遭遇します。恐ろしいエジ プト王は旅人にすぎない自分の命を奪うだろうと判断して、一つの計略をめぐ らしました。それは、自分の妻サライを妹として紹介し、その事で、何とか助 かろうと考えたのです。その予測どおり最悪の事態となりました。愛する妻は 王の愛妾として取り去られたのです。この12章にはアブラハムのホンネが全 く記されていませんので、どう考えたのか定かではありませんが、おそらくア ブラハムは激しく悩み、がっくりと肩を落とし「これで万事休すだ。私のした 事はとんでもない事だった…、もう取り返しがつかない、私は恐ろしい失敗を 犯したのだ!」自分を責めた事でしょう。しかし、神は奇跡的な助けを与え、 妻サライをギリギリの所で、窮地から救い出されました。こように「神の支配 」は私達の罪や失敗や弱さにもかかわらず、驚くべき方法で助け出される神の み業を意味しています。また、ふしぎな事ですが、主は彼を責めておられませ ん。彼に必要な事は、厳しい叱責や罰ではなく、傷ついた心の癒しだったから です。そして「アブラムも彼女のゆえに幸いを受け、羊の群れ、牛の群れ、ろ ば、男女の奴隷、雌ろば、らくだなどを与えられた」(16節)と続きます。自分 の大失敗が幸いへと変えられたのです。思い悩み、苦しむ事が起こった時は、 この物語を思い出しましょう。神の支配は決して狭く、小さいものでありませ ん。それは非常に広く、深く、高いものです。「いったいだれが主の心を知っ ていたであろうか。…すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に 向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」 (ロマ11:34〜36)



2004年10月10日

「栄光としての神の支配」

牧師 犬塚 修

ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。さて、ユダが出 て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子に よって栄光をお受けになった。 ヨハネ13:30〜31

ユダが愛に満ちたイエス様を裏切り、祭司長たちに売ろうとして「すぐ出て行 った」情景を想像すると、悲しみと怒りが入れ混じった複雑な思いになります 。いよいよ、恐れていた最悪のシナリオが展開していく事が、切実に感じられ 、これからどんな恐ろしい事が続くのだろうかと重苦しい感情が渦巻きます。 正に時は「夜であった」のです。弟子達の心を支配していたものも、暗黒であ ったことでしょう。しかし、間髪入れず、驚くべき言葉がイエス様の口から発 せられました。それは、「私はユダの裏切りの事で悲しんでいる。これからど うしたら良いか…歯を食いしばり、がんばってくれ」というような悲壮感に満 ちた言葉ではありませんでした。そうではなく、「今や、人の子は栄光を受け た」と言われました。それは耳を疑う言葉でした。これからイエス様の身に起 こる出来事とは、十字架に至る茨の道でした。当時、髑髏(どくろ)の丘と呼ば れたゴルゴダが終点地でした。どこに、神の栄光があるというのでしょうか。 栄光どころか、恥辱、苦難、痛みが待っているのみと思ったかもしれません。 けれども、イエス様がハッキリと「栄光」と宣言されました。元来「栄光」と は「重さ」という語源に由来します。人生で「重い」現実は、私達を苦しめる ものとして考えがちです。しかし、聖書では、重さは栄光となるのです。イエ ス様は十字架の向こうに見える復活の輝きを示されています。十字架から復活 へ、更に、昇天、再臨という壮大な神の支配の計画が、幕を開けるのです。ゆ えに、私達の目には最悪と思えるものも、実は、神による栄光のシナリオであ る事に気付き、いかなる出来事が起こっても、これは神の栄光となると確信し て、平安と信仰と希望を抱いて生きる事です。信仰によって悲観主義を克服す る事です。



2004年10月17日

神の支配---成長を目指して

牧師 犬塚 修

それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て 、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。      ルカ9:23

イエス様の救いに導かれ、バプテスマを受けることはすばらしい恵みであり、 人生における大きな祝福です。しかし、バプテスマは祝福の人生の出発点であ って、終点ではありません。信仰の歩みは嬰時期、幼児期、子供期、思春期… と続いて常に成長していくものです。すなわち、クリスチャンになった次の日 から、聖書に基づく神中心の考え方ができるわけではなく、昔の古い習性が頭 をもたげてくる事もあります。それは虚無、自己中心性、失望感、自己嫌悪、 疑い、悲しみ、憎しみなど様々です。それらが、心を占有すると、信仰の成長 は遅くなり、喜びは失われ、キリストの香りも消える事にもなりかねません。 私達は、神のみ言に従うか、否か、において、悪魔との戦いに勇敢に出て行く キリストの戦士です。日々、忍耐強く古い自分と戦う者です。気を抜くと、サ タン軍は私達の心を暗黒に引きずりこみます。ダビデのパトシェバ事件(サムエ ル記下11章)はその典型です。信仰の輝きを放っていたダビデの罪と敗北は何と いう惨めさでしょうか。私たちも主を忘れると、とんでもない失敗を繰り返す 弱さがあるものです。イエス様は「日々、自分の十字架を背負って従いなさい 」と命じられました。古い自分に死んで、霊に生きるようにみ言を実践してい く事です。主の十字架の救いを日々、仰ぎ、自分を捨て去る決断をする事です 。混乱の時代の中にあって信仰に立ち、凛として生きることはとてもすばらし い生き方です。自分の弱さを受容しつつも、イエス様に全身全霊を尽くして従 うならば、必ず、豊かな祝福を得ます。「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき 倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。 走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザヤ書40:31〜32)生き方をし たいものです。信仰の成熟を目指し、日々成長して生きましょう。共に熱心に 祈りつつ



2004年10月24日

神の支配としてのみ業

牧師 犬塚 修

「わたしはあなたをいやす主である。」 出エジプト記15:26

どんな難問題であっても、主のみ心ならば、必ず解決できると信じることが大 切です。主のみ心とは愛です。主は私たちのことを深く心にかけて下さってい ます。どんなにすばらしい信仰を持っている人であっても、チクリと胸が指さ れる現実に遭遇する時があります。そして、目に見えるものに心が動揺したり 、落胆したりします。いつも平常心で歩みたいと願いますが、事態が低迷した り、逆に悪くなったり、少し状態が良くなったなと期待していたら、また元に 戻ったりすると、「やはりだめか」と失望します。しかし、そのような中にあ っても、主は生きておられる!と信じて必ず、栄光のみ業が待っていると確信 しましょう。今回、私は博多空港で、待ち合わせをしましたが、勘違いから所 定の場所から少し離れた所に移動してしまいました。その結果、大変な時間的 ロスをしてしまい、迷惑をかけてしまいました。つくづくと、疑わずに自分の 確信に立って、定められた場に踏みとどまる事の大切さを思いました。目に見 える現実とは何の関わりなく、強くみ言葉に立ち、自分の確信を持ち続けるこ とです。「定められた時のためにもうひとつの幻があるからだ。それは終わり の時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待ってお れ。それは必ず来る、遅れることはない。…神に従う人は信仰によって生きる 。」(ハバクク2:3〜4)とあるます。私たちの神は愛に満ちた創造の神です。 どうして、私たちの生活を新しく創り上げられないことがありましょうか。い やしの時は必ず訪れます。その事を信じ続けるために、長い忍耐力を働かせ、 また、できる限りのユ−モアと陽気な心を持って力強く歩き続けましょう。「 見えるものに対する希望は希望ではありません。…このような希望によって救 われているのです。私たちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待 ち望むのです。同様に、"霊"も弱いわたしたちを助けてくださいます。」(ロマ 8:24〜26)



2004年10月31日

神の支配と義の訓練

牧師 犬塚 修

神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この 世の悲しみは死をきたらせる。 第二コリント7:10

モ−セに率いられたイスラエル民族が荒野の生活の時は、必死の思いで、信仰 に立っていましたので、その生き方は凛とした一面がありました。ところが、 乳と蜜の溢れる約束の地カナンに入ってからは、少し変化が生じてきたのです 。それは、生活が豊かになるにつれて、信仰が弱くなり始めたのでした。もの が溢れると、人間は主に対して、強い求めをしなくなるようです。むしろ、少 しぐらいの苦難や悲しみは私たちに必要なものかもしれません。失望感や挫折 感は私たちにとって決して好ましいものではありませんが、それが、本当は、 私達を主に向かわせる原動力になることが多いのです。イスラエル人が、恵ま れたカナンの地で、まことの神ではなくて、偶像を慕い求めたように、私達に は、サタンの誘惑に弱い一面があるものです。何かいやな経験のことで、驚き 、悲しみ、深い嘆息がもれた時は、幸いなのです。「心の貧しい人々は、幸い である、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その 人たちは慰められる」(マタイ5:3〜4)悲しみも良薬のようなものにすぎません 。また、悲しみに打ち勝つ方法はこれも主から与えられた義の訓練と信じるこ とにあると信じます。今起こっていることが理不尽で不気味なこと、これから 更に恐ろしいことが起こる前触れなどという悲観的な思いにとらわれると、私 たちは不安に襲われます。むしろ、今はどん底であって、後は立ち上がるだけ で良い、これから本当の祝福が始まると確信することです。「およそ鍛錬とい うものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後 になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるの です。だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の 不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっす ぐな道を歩きなさい。(ヘブライ12:11〜13)


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