巻頭言
2003年10月


2003年10月5日

伝道と祝福月間を迎えて

牧師 犬塚 修

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないものはなかったはずです。神は真実な方です。 あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、 逃れる道を備えてくださいます。 第一コリント10:13

ある大学祭で面白い部屋があり、そこには多数のくつがひもで結ばれて飾ってありました。そのタイト ルが「人生はくつ(う)の連続」とあったそうです。これは、単なる駄じゃれですが、「うまいなぁ」と思わ ず笑ってしまいました。確かに、人生は苦痛に満ちている一面があります。突如、苦痛や試練が襲 いかかってきます。なぜ?こんなことがわが家に起こるのか…と悩み、いろいろな疑いが沸いてきます。 本当に私たちの将来は大丈夫なのか、もう望みは失われたのではないか?と暗く考えることもある でしょう。

このような時は、私たちは試練を見るのではなく、あえて「逃れる道」を直視することが大切です。 ものには表と裏の両面があります。試練の裏には、深い主の真実のご計画が隠されています。私た ちのなすべきことは主の備えられる「逃れの道」を発見する事です。主イエス様の33年間の歩みは人 間的に見れば、苦しみの連続に見えましたが、実は、復活にいたる勝利と祝福の道でした。信仰と は全く別の見方をする事なのです。主にあって、最悪も最善へと変わると本気で信じる事です。不幸 や最悪と思う出来事が、祝福の要因となります。私たちは試練は辛いものであっても、その先には神 の祝福があると確信しているでしょうか。祝福は自分が想像したものとは違うかもしれませんが、必ず 脱出の道はあります。この細い道を進むことで、キリスト者は主と共に、祝福の大原野に至るのです。



2003年10月12日

主の力があらわれる所とは

牧師 犬塚 修

わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。  コリントの信徒への手紙二12:9

主の恵みと完全な力はどこにあらわれるのでしょうか。普通に考えるならば、健康美、人間的魅力、 卓越した能力、優秀さ、豊かさを通して発揮されると思うのではないでしょうか。けれども、パウロは 私たちの弱さと欠乏、惨めさの中でこそ、完全に発揮されると書いています。これは驚くべき言葉です。 私たちが「○○の天才」とか「〜の怪物」という言葉に惹かれるのは、自分にないと思うものに魅力を感じ るからです。その関心事については何ら問題もありませんが、信仰の面で、同じような傾向があると危険 な気がします。元来、信仰とは感情的というよりも、理性的、意志な面が強く、本質的には霊的なもの であって、どちらかというと冷静で淡々としたものです。もちろん、感情は大切ですが、イエス様は激しく 絶叫したり、感情を異様に高ぶらせたりはなさいませんでした。私たちが、刺激的なものを求め、感情 的な恍惚感を追い求めると、信仰は不健康なものとならないでしょうか。スリルを求める激情的な 信仰は、自分の現実を主にあって、あるがままで受容したり、感謝し満足することがどうしてもできず、 「これではいけない…」と現実を否定し、慢性的に悲しみ、自分を卑下していきます。そして何となく 隣の芝生は青く見えてきて、心が落ち着きません。信仰とは私たちがス−パ−マンになることを意味し ません。私たちがいろいろな事で悩み、痛み、苦しみを持っても良いのです。静かな忍耐に支えられた 信仰は、試練の中にあっても、決して絶望せず、希望をもって生き、ついにはキリストの恵みと力を体 験し、すばらしい復活のいのちをもたらすのです。自分の弱さと未熟さ、痛み、傷をそのまま、素直に受 け入れて隠す事なく、すべてを感謝して生きたいものです。



2003年10月19日

祝福と自己鍛錬

牧師 犬塚 修

すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後にな れば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。 へブル書12:11

私たちが信仰に目覚めると、主の愛の深さ、広さに感動を覚え、感謝の心が湧いてきます。なぜならば、 主はどんなに弱い自分でも、決して見捨てる事なく、常に祝福の世界に導かれる事を悟ったからです。 それこそが、限りなく慕わしい神の恵みの世界です。さらに、私たちは次の段階に進みます。それは喜ん で自己鍛錬していく道です。その意味では自己鍛錬は大変に有益です。優れたピアニストは日々、何 時間も血のにじむような精進と努力をします。その努力も楽しいのです。もし、その人が努力を怠るなら ば、成長はストップしてしまうでしょう。信仰生活もまた、忍耐強く、十分に長い時間をかけて熟成して いくものです。W・バ−クレイは次のような内容を書いています。「哲学者プラトンの著書「共和国」は「私 は昨日、アリトンの息子グラウロンと一緒にピラウスに行った。…」という簡単な文章で始まるが、彼はこの 短い一節を書くために他の違った表現を13種類も書き込んでいたのだ。完璧な韻律を出すために、何 度も書き直したという。ある批評家は、生徒の書いてきたものに対しては「こんな作品は駄目だから消し てしまいなさい。もう一度焼き直し、たたきなおしてきなさい」と言うのが常であった」と書いています。このよう な厳しい先生に鍛えられ学生は幸いです。彼は自分の甘い考え方を捨てる事によって、一段と成長し、 優れた作品を生み出していく事でしょう。じっくりと腰を落ち着けて、鍛錬をしっかり受け、耐え忍び、主の 道を踏みしめて、前進する事です。最善の時が来れば、必ず祝福を得ます。聖霊により頼みつつ、楽しく 地道に精進、努力の積み重ねていきたいものです。



2003年10月26日

祝福と実行力

牧師 犬塚 修

わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして 追い求めているのである。…すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。 フィリピ3:12, 13

祝福に満ちた豊かな生涯を送るためにはどのようにしたら良いでしょうか。それは失敗を恐れない決断力と 実行力を持つ事です。私たちは、確かにのんびりと休んだり、リラックスする時も必要です。しかし、ここぞと いう時には、必死の思いで、蛮勇をふるってでも、信仰を持って前に突き進む気概が大切なのです。わき 目も振らず、必死で今なすべき事をなし続けるのです。たとえ、自分がしている業が不完全で、欠けだらけ であっても構いません。ただ前に向かって、必死にそれに取り組む、主のために働く事です。「求めよ、そうす れば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであ ろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである」(マタイ7:7〜8)

失敗を恐れ、臆する思いにとらわれ、優柔不断な態度では祝福を逃していく恐れがあります。失敗しても、 チャレンジして前向きに進みましょう。主はそのような人を必ず助けられます。また、その失敗も明日につながる ものとなります。主は大いなる祝福を与えようとされています。それを受け取るか否かは、私たちの信仰の態度 にあります。「苦い過去や罪に支配された後ろのもの」を忘れ、目標を目指して走る人は幸いです。私たちは 神によって、すばらしい明日に向かって生きるように創られているのです。そして、信仰を抱き主に求め続ける者 は、時がくると、必ず祝福と報いを受けます。


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