巻頭言
2002年10月


2002年10月6日

「礼拝と和解」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉 をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるの で、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。 神と和解させていただきなさい。  コリントの信徒への手紙二5:19〜20

人と和解することこそ幸せになる道であります。もし、誰かに対してどうしても赦すことができ ないと苦い根を持っているならば、それを取り除くことが肝要です。相手を赦すことは、そんなに 簡単なことではありません。裏切られたこと、存在を無視されたことは記憶の中に残ってしまい ます。その否定的な感情を引きずったまま、年日が流れていくことは苦しいことです。そのよう な時、どうしたらよいのでしょうか。その傷ついた部分にイエス様の十字架を受け入れることで す。心の中には、傷つけられた血がいまだに流れているならば、愛するイエス様が鞭で打たれ、 背中はざっくりと裂かれ、血はほとばしり、激痛に耐え抜かれたことを思い起こすことです。そ うすることで、イエス様の深い愛を悟り、悲しみを共に担おうとされた恵みに圧倒され、憎悪の 念は消えて生きます。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。 彼は私達に顔を隠し、私達は彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのは私たちのの病、彼が負 ったのは私たちの痛みであった」(イザヤ53:3〜4)とあります。人と和解するためには、イエス様 を心にお迎えすることがどうしても必要です。私たちの罪のためにイエス様が死んでくださった と信じるとき、和解の心は与えられていきます。和解は私たちの感情から生まれてくるものでは ありません。それは、主から受けるものです。イエス様の十字架を私たちの心の苦い部分に打ち 建てるのです。その時、和解に伴う祝福が流れ出してくるのです。



2002年10月13日

和解の道

牧師 犬塚 修

それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストに よって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。 敵であったときでさえ、御 子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御 子の命によって救われるのはなおさらです。   ローマ5:9〜10

私達が神に義とされるのは、私達の善行によるのではありません。私達の中にはそのような 誤解がある気がします。良い行いをすることで、神に認められ、救われると思いたいのです。 しかし、私達の行いは完全なものとはいえません。必ずどこかに罪が染み込んでいます。神 は愛に満ちたお方ですが、同時に完全な聖なるお方です。私達の行いも完全なものでないと、 神に受け入れられることは不可能です。たとえば、純白な背広を着た父親が、長い出張から帰 宅した時、愛する子と再会する子供をどんなに待ち焦がれたことでしょうか。泥んこ遊びをし ていた子供が、愛する父親の姿を見て、大喜びで走ってきて、抱きつこうとしたとします。そ の時、父親はどうするでしょうか。「ちょっと待ちなさい。私の子よ、まず汚れた着物を新し いものと着替えてきなさい」と優しく注意することでしょう。そして、その忠告を受け入れ、 洗ってきれいになって来た時は、父親は大喜びで抱きしめてくれることでしょう。神が私達を 愛される姿もそれに似ています。悔い改めとは自分の汚れた着物を脱ぎ捨てることです。そし て、新しい着物を着るように、神の御子イエスの十字架の救いを受け入れることです。私達の 罪がいかに恐ろしいものであっても、それを主は完全に赦して下さいました。それが十字架の 出来事でした。十字架につけられることで、主は私達のすべての罪の身代わりになられました。 ここに神の完全な愛があります。そして、この犠牲によって神と私達の間に完全な和解が成就 したのです。



2002年10月20日

十字架による和解

牧師 犬塚 修

その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万 物をただ御子によって、御自分と和解させられました。      コロサイ1:20

私たちは世界に目を向けた時、テロ、大量殺人、流血、憎悪、怨念、復讐、仕返しなどと いう悲しい現実を目にします。私たちの命はいつも危険にさらされています。世界のどこ に行っても、絶対的に安全という場所は存在しません。私たちは和解ではなく、不和と不 安の時代に住んでいます。ですから、私たちは小さな声で、「私たちには和解させられる 希望がある」とか「もしかして和解できるかもしれない」という表現を用いる方がより現 時的と考えるものです。しかし、パウロはそのような弱々しい言葉は一切、用いませんで した。彼はハッキリと「(神は)和解させられました」と断言しています。彼は現実を無視し た単なる空想家にすぎなかったのでしょうか。また気安く、平安、平安と連呼する偽預言 者のたぐいの人だったのでしょうか。断じてそうではありません。パウロは正しくかつ厳 しく現実を見つめた人物でした。ただ、彼は人の見えない現実を深く見すえていたのです。 それは過酷な現実の中に立っているイエスの十字架でした。イエスは約2000年前、エ ルサレムのカルバリという丘で苦しみの極刑を受けられましたが、その死は全人類の罪の ために支払われた愛とあがないの奇跡でした。パウロはこの十字架の視点から現実をとら え直したのです。その十字架に神の強い意志を見出したのです。この十字架によって、神 と万物とは和解させられたという歴史的事実を信仰をもって受け入れたのです。その十字 架からみえてくる原風景は、全く予想を超えたものとなりました。それは復活の栄光が輝 く新天新地の到来の予感であったのです。この希望と確信の故に、パウロは、いかなる不 遇と苦しみにあっても、失望することなく、生き生きと生き抜くことができたのです。い つの日か、すべてが新しくなると歓喜して生きたのです。魂に染みとおる平安と喜びは十 字架による和解から生まれるものです。



2002年10月27日

 すべては祝福となって

牧師 犬塚 修

もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、 死者の中からの命でなくて何でしょう。
ローマ11:15

 イスラエルの歴史を学ぶ時、私たちはなぜ、神の民族がこんな艱難の道を歩いたのかとし ぶかることはないでしようか。彼らは何度も苦しみを味わい、辛酸をなめます。その原因 は、彼ら自身の高ぶりや罪のゆえであったことも事実です。しかし、同時に、そこに深い 神のご計画とあわれみを感じるのです。そして、パウロは大胆にも、彼らの辛い体験には 何の意味も意義もなかったのではなく、むしろ、その痛みは世界の和解に大きく貢献した のだと書くのです。彼らの敗北や一時的に捨てられたという体験を、神はあわれみをもっ てその過ちを許し、それらを用いて世界中の人々の救いと和解に導かれたのです。何と驚 くべき主のみわざでしょうか。この歴史的事実を知らされる時、私たちは、深い慰めと励 ましを受けます。もし、私たちが心から悔い改めて生きるならば、苦しみはいやされ、祝 福に変えられます。パウロは書きます。「わたしたちも神からいただくこの慰めによって、 あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれて わたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって 満ちあふれているからです。わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救 いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あ なたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです」(第二 コリント1:4〜6)と。私たちの辛い厳しい体験も、いつの日か、時満ちた時には、苦しむ人 々の救いに用いられると信じ、暗くなる気持ちを切り替え、明るい心をもって歩み続けた いものです。


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