巻頭言
2001年10月


2001年10月 7日

 「主の勝利と救い」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたし たちの信仰です。 だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者では ありませんか。 (第一ヨハネ5:4,5)

「悪運続きの果て…88億円大当たり」というアメリカ人D・エドワ−トさんの宝く じ当選のニユ−スには本当に驚きました。(朝日新聞8月28日)。家庭的不幸、解雇、 腰痛の病気、貧乏と次々と起こる連続的な不幸のあと、ギリギリまで追いつめられ、 これ以上失うものはないと思い、それでも発売終了直前にかけこみで買ったくじがな んと88億円の大当たりとなったのです!何という奇跡でしょう!このような事実を 見せられると人生にあきらめという言葉は不要である事が分かります。彼は自分の人 生を否定的にとらえず、絶望せず、最後の最後まで一発大逆転を信じて行動しました。 もし彼が希望を失っていたならば、こんな奇跡は起きませんでした。人生にはどこにす ばらしい祝福が隠されているか分かりません。私達はイエス様は神の子であると信じて います。それゆえに、驚くべき恵みがあることを信じて生きることが肝要なのです。 もちろん、それは楽なこと、安易な方法、非常識な願い、夢みたいなことばかりを追い かけて良いという意味ではありません。誠実に責任を果し、コツコツと働き、堅実な 人生のシナリオを描く事が大切です。 同時にまた、私達は自分の霊的な面での出生の 秘密を知ることも必要です。つまり、私達は神を御父として仰ぐ子供として、神の栄光 を現す目的で生まれた者なのです。そして、神の子達は主の勝利に与る者として信仰の 歩みをします。「世に打ち勝つ」は「勝ち続ける」という現在進行形です。たとえ、一見、 敗北したような生き方に見えてもイエス様は私達と共におられるならば、惨めな敗北も、 これからの人生に必要かつ重要な教訓となり、忍耐を学び、ついには栄光に満ちた勝利へ と、また喜びへと導いて下さいます。




2001年10月14日

一タラントンの人

牧師 犬塚 修

ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは 蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っ ていましたので、 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の 中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。 (マタイ25:24〜25)

はじめてこの聖書の箇所を読んだ時、私はいたくこの人に同情したものでした。どうして、 主なる神(主人)は他の者には五タラントンとか二タラントンもあげて、彼だけにはわずか 一だけなのか、それは不平等ではないか…と憤慨したものです。しかし、良く聖書を読む とその理由が書かれていました。「ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分 の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン…」(14〜15節)つまり主 人はしもべ達の適性を見事に知っていたのです。私達は皆それぞれが主から違う賜物を 頂いています。多く与えられた者はそれだけ責任も伴います。ですから、私達にはねた みや不平を持つ必要も意味もありません。ところが、この人はどうしても否定的なもの の考え方に陥っています。彼は感謝する事を忘れ、またどんなに主人に愛されているか も感じようとはしていません。何よりも致命的な事は、慈愛に満ちた主人を疑っていた 点です。実は一タラントンとは大変な金額で、一国の王の身の代金にあたるものでした。 ですから、彼はいかに莫大なお金を預けられたかをもっと感謝して良かったはずです。 しかし、残念ながら彼は、その豊かな賜物を無にしました。どんな事も感謝し、喜んで 主に信頼して歩む人になりたいものです。たとえ、わずかの恵みにも心から感謝して 讃美して生きるか、あるいは多くの恵みにも不平を抱き、悶々と無為に日を過ごすかは、 自らの信仰的決断にかかっています。




2001年10月21日

流木のように

牧師 犬塚 修

すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。 栄光が神に永遠にありますように、アーメン   (ロ−マ11:36)

人生は大河に流れ下る流木にも似ている気がします。太い幹にしっかりとつな がっていた一つの枝が、ある日突然、何かの出来事で幹から切り離され、もんど りうって川に落ち、そこから流木として流されていきます。私たちも胎児の時は 母親の温もりの中で守られていますが、時が来ると、この世に生を受けます。そ して一人の人間として成長し、自立していきます。世界は川の流れに似てよどむ ことがありません。また、流木もどこに流されるかを知りません。ただ流れに身 を任せたままです。ある時は激流で、堅い岩にぶち当たり、また、ゆるやかな時 もあり、ある時は岸辺の草むらに入り込み、しばらくの間は何もできないままに 放置されます。そんな時は水の流れが変わるのを忍耐強く待つしかありません。 流木に言葉があるならば、おそらく、「なるようにしかならないよ」とか、「まあ、 これでいいさ」と口笛を吹いているのかもしれません。風が吹いてくるまでゆっ たりと構えていることでしょう。私はこの流木から大切な真理を学びます。何に もこだわらない生き方についてです。パウロは幾多の人生の嵐に襲われた試練の 多い人でした。彼は「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、 鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でし た。…一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の 難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の 兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇 き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました」(第二コリ ント11:23〜25)と書いています。そのパウロは流木のような一面がありました。 ついにはすべてが神の栄光に向っていると確信していました。彼は実に、すべての こだわりから解放された自由人でした。何も着飾る事なく、喜んで生きることを楽 しみ得た人でした。




2001年10月28日

人生にマイナスはない

牧師 犬塚 修

あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の 命を救うために、今日のようにしてくださったのです。 (創世記50:20)

日々の生活の中で、人知れず悩む事があるかもしれません。その結果、何日間もい やな気分で過ごしてしまうことになります。しかし、実は私達にとってマイナスの事 が起こる事は良い事なのです。それによって私達は、すばらしい真理を学ぶからです。 私達の信仰が成長する時は、大体危機的な状況の時が多いのです。震えるような衝撃の 中で、私達の心は揺さぶられ、真摯な悔い改めや、信仰の深まりに至ります。竹の葉が 暴風に揺さぶられることによって、その根が土中深く成長するように、信仰の確信も逆 風の中から生まれます。楽聖ベ−ト−ベンの名曲の数々は、彼の苦しみやうめきから生 まれてきたものでした。私達にとって、苦労や辛さも主の祝福に至る入り口のようなも のです。ヨセフは若い頃は、自分を裏切った兄達をどうしても赦す事が出来ませんでし たが、年を重ねるにつれ、神のご計画が見えてきました。彼はあの悲しい出来事にも神 の助けと導きがあったという悟りを得ました。神は試練や痛みを用いて驚くべきみわざ を現されると悟ったのです。私達もどんなことがあっても、それを嘆き、悲しむのでは なくて、逆に、そこから隠された大きな恵みを発見することができます。怒りや悲しみ は自分の骨を腐らせるだけですが、すべての道において、主の完全な支配を信じる人は、 弱った骨までも生き返らせ、豊かな人生を送って生きるようになります。「およそ鍛錬と いうものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になると それで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。だから、萎え た手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。足の不自由な人が踏み外すことなく、むし ろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。」(ヘブライ12:11〜13)



TOP